今回は、コロサイ書1章21~23節を読みます。前回取り上げた13~20節のうち15~20節は、当時の教会に流布していた賛歌の引用でしたが、21節からは著者の筆に戻ります。
21 あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。22 しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。23 ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣(の)べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。
このうちの、21節の「以前(ポテ / ποτέ)」と22節の「今や(ニュニ / νῦνι)」は、本コラムの第10回でお伝えした、フィレモン書11節の「彼(オネシモ)は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」の、「以前(かつて、ポテ / ποτέ)~・今(ニュン / νῦν)~」という構文を引用しているものだと思われます。第10回では、パウロによるこの構文を他の真性書簡の中からも抜き出してみましたが、それを再度提示します。なお、「ニュン / νῦν」と「ニュニ / νῦνι」に大きな違いはありません。
あなたがたは、かつて(ポテ / ποτέ)は神に不従順でしたが、今(ニュン / νῦν)は彼らの不従順によって憐(あわ)れみを受けています。(ローマ11:30)
かつて(ポテ / ποτέ)我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今(ニュン / νῦν)は福音として告げ知らせている。(ガラテヤ1:23)
こうして見てみますと、パウロはローマ書では「以前~・今~」の構文を「異邦人のキリストにあっての転換」に、ガラテヤ書では「自身のキリストにあっての転換」に、フィレモン書では「オネシモのキリストにあっての転換」に用いています。特にフィレモン書の場合は、「以前はあなたにとって『役に立たない(アクレーストン / ἄχρηστον)』者でしたが、今は、あなたにもわたしにも『役立つ(エウクレーストン / εὔχρηστον)』者」とされており、「キリスト(クリストス / χριστός)」という語呂を踏んでいるのは明らかです。「キリストにあって役立たないものから役立つものへと転換された」という意味です。ただし、当該コラムでお伝えしましたが、私は、フィレモン書11節は、パウロがオネシモに洗礼を授けたというオネシモの受洗に起因することを意味しているのではなく、彼が宣教者になる決意をしたというようなことだったのではないかと考えています。
そして、パウロが真性書簡で書いている3つの「以前~・今~」の出来事は、3者(異邦人、パウロ、オネシモ)の生における大転換を示しているといえるでしょう。フィレモン書は、そこに書かれていることが基本的には成就しているが故に正典として残されたといわれており、私もそのように考えています。であるならば、パウロからフィレモンへのその書簡における願いにより、オネシモは奴隷から解放され宣教者となっているはずです。実際に後代、オネシモがエフェソ教会の監督となっていることが、「イグナティオスの手紙―エペソのキリスト者へ」の中に記されていると、第8回でお伝えしました。
そうなりますと、フィレモンもオネシモも、パウロのこの手紙「フィレモン書」を大切にして何度も読んだことでしょう。そしてそこに書かれていることを大切にしながら、「コロサイ書」「エフェソ書」を書いたというのが私の見立てです。
その観点で私が興味深く感じているのは、フィレモン書11節に記されている「以前~・今~」が、今回を含めてコロサイ書で2回、エフェソ書で2回使われているということです。それを以下に列挙します。
あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。(コロサイ1:21~22)
あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。(同3:7~8)
しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。(エフェソ2:13)
あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。(同5:8)
こういったところが、パウロの手紙(フィレモン書)をよく読んでいたフィレモンとオネシモが、「キリストにあっての転換」という意味合いで、コロサイ書とエフェソ書に書き記したのではないかと、私には思えて仕方がないのです。
今回取り上げた箇所のうち、1章21~22節での「キリストにあっての転換」は、「以前(ポテ / ποτέ)」は神から疎遠であったコロサイ教会の人たちが、「今や(ニュニ / νῦνι)」キリストにあって神と和解し、聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者、すなわち罪の赦(ゆる)しを受けた者として、歩んでいるということです。この罪の赦しこそが、かつてコロサイ教会に滞在していた巡回宣教者エパフラスから学んだ「福音」(1章7節)に他ならないということなのだと思います。
23節には、「わたしパウロは、それ(福音)に仕える者とされました」とあります。本コラムでは、コロサイ書は擬似書簡であるという立場で執筆を進めていますが、パウロが福音に仕える者であったということは間違いのないことでしょう。(続く)
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