本コラムは、パウロの書いた手紙(フィレモン書)を読んだ弟子のフィレモンが、擬似書簡・コロサイ書を執筆し、フィレモンの奴隷であったオネシモが、フィレモン書とコロサイ書を元にして、擬似書簡・エフェソ書を執筆したものと見立てて、3つの書簡をその関連性の中で読み解いていくものです。今回は、コロサイ書1章24~29節を読みます。
24 今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。25 神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。26 世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。27 この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。28 このキリストを、わたしたちは宣(の)べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。29 このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。
26節と27節の「秘められた計画」は、エフェソ書でも同じような意味合いで使われており、両書の共通する用語として注目しています。27節では、「秘められた計画」とは「栄光に満ちたイエス・キリストが、異邦人それぞれの内におられること」であるとされています。今回のコラムの副題では、このことを「内住のキリスト」とさせていただきました。「内住」は、一般の辞書にはない言葉ですが、キリスト教界においては本のタイトル(例1・例2)などでも使われています。新共同訳では「内におられるキリスト」となっていますが、言葉としてしっくりするので「内住のキリスト」とさせていただきました。この箇所ではつまり、「内住のキリストは栄光に満ちている」ということがいわれているのです。
この「内住のキリスト」と結ばれて完全な者となるように、といわれているのが28節です。「キリストに結ばれて」というのは、ギリシャ語原典では「エン クリストー / ἐν Χριστῶ」であり、直訳では「キリストにあって」くらいでありましょうが、聖書全体でのロジックで理解するなら、新共同訳の「キリストに結ばれて」が良いと思います。
ヨハネによる福音書15章5節を見ますと、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」というイエスの言葉があります。この聖句は、実は私が牧会する教会の年間聖句です。
「人がわたし(イエス・キリスト)につながっており、わたしもその人につながっていれば」とは、コロサイ書の「内住のキリストと結ばれる」と同じです。ヨハネによる福音書では、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は『豊かに実を結ぶ』」とされています。枝がぶどうの木(イエス・キリスト)につながっているならば、樹液が送られるわけで、それはヨハネによる福音書で言われている「命の水」(4章14節)と「命のパン」(6章34節)を、私たちが飲み食べることでしょう。その結果「豊かに実を結ぶ」のです。
では、「豊かに実を結ぶ」とはどういうことでしょうか。これを一番的確に、そして最も多く示しているのが、ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節の「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」という9つの実であると思います。私の牧会する教会では、教会学校で今この実を作っています。
コロサイ書にもこういった「実」は、3章12~14節に「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐(あわ)れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦(ゆる)し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」と書かれており、「憐れみの心、慈愛、柔和、謙遜、寛容、赦し合い、愛」という7つが挙げられています。
今回28節で「キリストに結ばれて完全な者となるように」と言われているのが、「実を結ぶ」ことなのだと思います。新共同訳で「完全な者」と訳されている「テレイオス / τέλειος」は「成熟した者」と訳す方がしっくりします。「内住のキリストと結ばれて成熟した者に」ということです。それは、ヨハネによる福音書の表現であれば、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」ということなのです。「成熟した者になる」ということは、「実を結ぶ」ということなのです。
1章10節には「善い業を行って実を結び」とありますが、「善い業」は「アガソス / ἀγαθός」であり、「善い業」は、本コラムの第5回、第14回、第18回でお伝えしましたように、フィレモン書においてパウロが強く示していた「神の御旨」であり、コロサイ書でそれが展開され、エフェソ書に受け継がれていくものです。「内住のキリストと結ばれて成熟した者に」ということは、「善い業を行って実を結ぶ」ということなのです。
次回から取り上げるコロサイ書2章では、コロサイ教会に集う信徒たちに、具体的に降りかかった問題が扱われています。(続く)
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