前回からの続きで、集中構造分析の「FとF´」に関して立てた5つの問いのうち、今回は3つ目と4つ目の問いを取り上げます。まずは、集中構造分析の「FとF´」に該当する部分と、今回取り上げる2つの問いを掲載します。
F 10 監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。11 彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。
F´ 18 彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。19a わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。
3. 「以前~・今~」という言い回しは何を意味しているか
4. 「役に立つ」「役に立たない」は何を意味しているか
今回は本題に入る前に、避けては通れない「擬似書簡問題」に触れておかねばなりません。擬似書簡とは、新約聖書の13通のパウロの手紙の中で、「パウロの弟子がパウロの名前で書いたものではないか」とされているものです。この問題は、キリスト教界でも広く論争されてきました。擬似書簡とされるものは以下の6通です。
エフェソ書、コロサイ書、第2テサロニケ書、第1テモテ書、第2テモテ書、テトス書
この問題を私がどのように捉えているかといいますと、第一に、たとえパウロ以外の誰かが書いたものであれ、「これら6通の手紙がパウロの言葉であることは間違いない」と考えています。もちろん私も、自分が牧会する教会でこれらの手紙から礼拝説教をすることがありますが、その際には「パウロは~と言っている」と申し上げます。それは、実際にはパウロの弟子が書いたものだとしても、そこに書かれているのはパウロの言葉であり、間違ったことを言っているわけではないからです。
しかし第二に、これら6通の手紙をパウロ本人が書いたかと聞かれれば、私は「そうは思えない」とお答えします。パウロをよく知っている人たちが、パウロの言葉を伝えるために書いたと考えているのです。私は新潟県柏崎市で牧会をしていたことがありますが、柏崎市立図書館の庭には、貞心という尼僧の像が建っています。貞心は良寛の言葉を後世に伝えた人です。書かれている言葉は良寛のものでも、実際に書いているのは貞心なのです。そういったことが、パウロの手紙にもあるのだと考えています。
擬似書簡でないパウロの手紙を「真性書簡」といいますが、擬似書簡と真性書簡の間に少しの差異が見られることから、この2つが分けられています。擬似書簡は、パウロの言葉を伝えているものですが、やはりその書簡を書いた人(パウロの弟子)の神学が見られます。私はそういうことをすべて含めて、「聖書は神の霊感によって」成ったものだと捉えています。
本コラムで取り上げているフィレモン書は、パウロの真性書簡です。このことが疑われたことはないと聞きます。さて、なぜこのように擬似書簡のことを書いたかと言いますと、フィレモン書を語る際に、もし他のパウロ書簡を例示するとするなら、やはり真性書簡を先に挙げるべきだと考えているからです。真性書簡といわれている手紙は以下の7通です。
ローマ書、第1コリント書、第2コリント書、ガラテヤ書、フィリピ書、第1テサロニケ書、フィレモン書
3. 「以前~・今~」という言い回しは何を意味しているか
11節に、「彼(オネシモ)は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」とあります。この、「以前(かつて、ポテ / ποτέ)~・今(ニュン / νῦν)~」という言い回しを、パウロは他の手紙でも使っています。この言い回しが使われているところを、真性書簡の中から抜き出してみたいと思います。
あなたがたは、かつて(ポテ / ποτέ)は神に不従順でしたが、今(ニュン / νῦν)は彼らの不従順によって憐れみを受けています。(ローマ11:30)
かつて(ポテ / ποτέ)我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今(ニュン / νῦν)は福音として告げ知らせている。(ガラテヤ1:23)
ローマ書の方は異邦人のキリストにあっての転換を、ガラテヤ書の方はパウロ自身のキリストにあっての転換を意味しています。パウロにとっての「かつて」と「今」は、人生において、キリストにあっての大きな転換を意味します。ここでオネシモが、「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」と書かれているのも、キリストにあっての転換を意味していると、私は考えています。
さて、実はこの「以前(かつて、ポテ / ποτέ)~・今(ニュン / νῦν)~」という言い回しが、擬似書簡とされるコロサイ書とエフェソ書の中でも使われています。それが何を示すのかを、本コラムでやがてコロサイ書、エフェソ書をお伝えするときに書いてみたいと考えています。
4. 「役に立つ」「役に立たない」は何を意味しているか
ここで「役に立たない(無益)」とされている(アクレーストン / ἄχρηστον)と、「役立つ(有益)」とされている(エウクレーストン / εὔχρηστον)という言葉は、「キリスト(クリストス / Χριστός)」という語呂を踏んでいるのは明らかです。ですからここで「無益」「有益」とあるのは、「奴隷として役に立たなかった者が、奴隷として役に立つ者になった」ということではなく、「キリストに無益であった者が、キリストに有益な者となった」ということでありましょう。つまり、前回もお伝えしたように、パウロはここでオネシモを、「キリストに有益な宣教者として生み出した」と言っているのです。
ローマ帝国時代の奴隷には、非常に教養の高い人たちがいました。パウロの手紙の中に「養育係」という言葉が出てきますが、それは主人の子弟に教養を授けていた奴隷のことです。私は、オネシモという人は相当に教養の高い奴隷であったと考えています。「オネシモ」という名前自体が、実は「有用なる者」という意味です。もともと教養が高く「有益な者」であったオネシモが、さらに今度は「キリストに有益な者」となったということです。
フィレモン書の解説書を読みますと、「役立たずの逃亡奴隷オネシモが、パウロの元で改心して役に立つ者となった」としているものが散見されますが、そんなことではなく、パウロが、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」(ガラテヤ1:23)といわれる宣教者となったように、オネシモもまた、宣教者として立たされようとしていることが、このフィレモン書に記されていると私は捉えています。
今回は、集中構造分析の「FとF´」における3つ目と4つ目の問いを見ました。次回は、5つ目の問い「オネシモは結局どういう存在であったか」を取り上げさせていただきます。(続く)
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