あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。また、本年皆様の上に神様の祝福が豊かにありますように、そして新型コロナウイルス感染症の終息をお祈り申し上げます。
最初に、前回お伝えした「赦(ゆる)し合う」ということについて、少し補足しておきたいと思います。同じようなこととして、「愛し合う」「受け入れ合う」「へりくだり相手を自分よりも優れた者と考え合う」ということがあるともお伝えいたしました。これらのことは、本来人間にはできないことです。十字架にかけられた神の御子イエス・キリストを見上げることによって、「主が愛してくださったのだから、受け入れてくださったのだから、謙虚になってくださったのだから、赦してくださったのだから」という信仰においてのみ、実践することができるのだと思います。そして、もし実践できなくても、そのような自分自身を卑下する必要はないのです。実践できない「私」をも、主は愛し、受け入れ、優れた者と考えてくださり、そして赦してくださっているのです。そこからのスタートです。
さて、今回はコロサイ書3章15節b~17節、そして4章2~6節を読みます。その間の3章18節~4章1節は次回詳述いたしますが、挿入文と考えられますので、今回は省くことにいたします。
3:15b いつも感謝していなさい。16 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。17 そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。(中略)4:2 目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。3 同時にわたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、わたしは牢(ろう)につながれています。4 わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください。5 時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。6 いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。
2章で主に異端的な教えとその過ちについて述べた後、3章では洗礼を受けた者に対し善い業を行うことが奨められていましたが、3章15節bからは、教会での神礼拝を中心とした在り方と、教会の外に出て行くこと、すなわち社会生活について記されています。3章のこれらのことは、洗礼を受けた者たちにとっては、円環のように不可分なことでありましょう。そしてそれらは、異端的な教えである天使礼拝や「独りよがりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行」(2章23節)を伴うものの対極に位置するものです。なぜならば、神礼拝を中心とすることは、天使礼拝や独りよがりの礼拝ではありませんし、善い業とは十字架を見上げることによる行いであり、それは偽りの謙遜ではない真の謙遜であり、体の苦行を伴うことではないイエス・キリストに対する信仰によることだからです。
神礼拝については、「いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により(賛美)、感謝して心から神をほめたたえなさい(頌栄)。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい」とされています。感謝と祈り、教え、賛美と頌栄という礼拝行為が、さまざまな言葉としてちりばめられています。
また、「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい」とあります。この「目を覚まして祈りなさい」という言葉を読んで私が連想することは、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書)にあるイエスのゲツセマネの祈りの記事です。マルコ福音書から取り上げます。
一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」(マルコ14:32~42)
イエスが十字架にかかる前の夜、ゲツセマネで祈っている間、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子たちは、睡魔に襲われ眠ってしまいます。この時のイエスの祈りは、全人類の罪を背負った実に重い祈りです。しかし弟子たちは、その祈りがなされているときに眠ってしまったのです。戻って来たイエスは、ペトロに「目を覚まして祈っていなさい」と言われます。しかし3人はまた眠ってしまいます。
私は、ペンテコステ後の初代教会において、この3人の弟子たちが自分たちの後悔と懺悔(ざんげ)を込めて、「目を覚まして祈っていなさい」という言葉を繰返し語り続けていたのではないかと考えています。初代教会にはこの言葉が定着していたのではないでしょうか(第1コリント書16章13節「目を覚ましていなさい」、第1ペトロ書5章8節「身を慎んで目を覚ましていなさい」参照)。また「キリストの再臨」の文脈で、この言葉が使われているところもあります(第1テサロニケ書5章6節「目を覚まし、身を慎んでいましょう」参照)。
続けて、「同時にわたしたちのためにも祈ってください」「わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください」と記されています。コロサイ教会の側に立ってこれを読むならば、「祈りは他者のためにする」という奨めでしょう。コロサイ書の冒頭には、「いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています」とありました。著者もコロサイ教会のために祈っているのですから、お互いに祈り合っていることになります。私たちは、祈り合うことへと導かれているのです。
5~6節は、「時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう」と、外部の人たち、つまり教会外の人たちに対する対応が記されています。教会員の社会での生活の在り方が示されています。「塩で味付けされた快い言葉で語る」ということは、イエスの教えの「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(マタイ5:13)と重なるでしょう。
塩には3つの働きがあります。「味を付ける」「腐敗を防ぐ」「命を与える(私たちの体内には塩分があります)」です。隣人との関係において、喜ばれ(味を付ける)、遮断されることなく(腐敗を防ぐ)、生かされた関係を保っていく(命を与える)言葉を語っていくということが、「塩で味付けされた快い言葉で語る」ということです。そうすることで、「一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう」と、隣人との対話の言葉が生まれてくるということでしょう。
私たちの言葉が社会生活においてそのような働きをするためには、「イエス・キリストの十字架のもとで善い業を行う」「神礼拝を中心とした歩みをする」ということと、円環的な関係を持ち続けることが必要でしょう。マザー・テレサのカルカッタでの奉仕活動は、早朝のミサから始まりました。私たちも、週の初めの日に礼拝をささげ、御言葉に養われ、祈り合うことによって、新たな週が始まります。そして、社会生活へと遣わされ、善い業の励行という円環的な歩みへと導かれるのです。
しかし、私たちは欠けのある土の器です。イエス・キリストの赦しの光のもとで、「善い業・神礼拝・社会生活」という円環的な歩みをしていくことが示されています。(続く)
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