いよいよコロサイ書の3章に入ります。今回は1~15節aを読みますが、このうち13節を中心とした箇所は次回にもう一度詳しく読むことにいたします。
1 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。2 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。3 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。4 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
5 だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。6 これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。7 あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。8 今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。9 互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、
10 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。11 そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。12 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐(あわ)れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦(ゆる)し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。14 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。15 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。
世真留教会礼拝堂にて
アドベントクランツにともしびがともり、今年もイエス・キリストのご降誕を待ち望む季節となりました。嬰児(みどりご)イエスが、馬小屋にお生まれになったことは、私たちの現実の心の中に救い主が来られたことを意味するとされています。5節と8~9節に記されている「みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉、うそ」という言葉は、私たちの現実の心の中を示しています。そこにイエス・キリストが来られたのです。
今回の聖書箇所では、その出来事が「以前(ポテ / ποτέ)~・今(ニュン / νῦν)~」の構文によって記されています。「あなたがたも、以前(ポテ / ποτέ)このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今(ニュニ / νῦνι)は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい」(7~8節)。これは、第21回でお伝えいたしましたが、1章21~22節の「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」にも見られたものであり、コロサイ書の親書簡であるフィレモン書から受け継がれていると思われる構文です。フィレモン書などパウロの真性書簡では、この構文は「人生におけるキリストにある大きな転換」を意味しますが(第10回を参照)、擬似書簡のコロサイ書においては、「洗礼の前後」を意味するとされます。ここでも、コロサイ教会の信徒の洗礼を背景にして、新しい生への召しが記されています。
イエス・キリストが心の中に来てくださったのだから、「古い人をその行いと共に脱ぎなさい」(9節)と述べています。そのようにネガティブなことから抜け出すことが記されている5~10節を挟んで、1~4節と8~17節に、ポジティブな歩み方が記されています。
そのポジティブな歩みの励行を、コロサイ書では「上にあるものを求めなさい」と表現しています。キリストは天で神の右におられるのです。そして、洗礼によってコロサイ教会の信徒たちは死に、キリストと共にいるのだと述べています。「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命はキリストと共に神のうちに隠されているのです」(3節)。
新約聖書での「命」という言葉は、「プシュケー / ψυχή」と「ゾーエー / ζωή」に分けられています。プシュケーが限りある「命、魂」であるのに対し、ゾーエーは「永遠の命」というような場合の「死を超克した命」を意味します。3節と4節に記される命は、ゾーエーです。新約聖書においては「キリストにある命」という場合は、ゾーエーが使われます。コロサイ教会の信徒は、キリストにある新たな命へと召されているのです。そして、その背景に「洗礼」があるということが、7~8節の「以前(ポテ / ποτέ)~・今(ニュン / νῦν)~」の構文において示されています。
では、キリストと共に生きる信徒たちが、「上にあるものを求める」というのは、具体的には何をすることなのでしょうか。それは、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着け」(12節)「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合い」(13節)「愛を身に着け」(14節)「キリストの平和があなたがたの心を支配するように」(15節a)することなのです。
これらのことは、1章10節に記されている「善い業(アガソス / ἀγαθός)」を行うことです。それは「神のご意志に応答する」ことです。このことこそが、「フィレモン書→コロサイ書→エフェソ書」を貫く最も大きなメッセージであると、私は考えています。「以前(ポテ / ποτέ)~・今(ニュン / νῦν)~」の構文も、3書を貫くものですが、フィレモン書とコロサイ書・エフェソ書の間では、少し異なるニュアンスで使われているように思えます。しかし、「善い業(アガソス / ἀγαθός)」は、フィレモン書を含むパウロの真性書簡から、コロサイ書、エフェソ書へと一貫した意味で使われている言葉ではないかと思わされます。
「独り子を遣わされた神のご意志に応答する善い業の行い」。このことを覚えて、アドベントの季節を歩みたいと思います。(続く)
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