今回は、コロサイ書3章13~15節aを再度読むことにいたします。
13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦(ゆる)し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。14 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。15 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。
13節は、コロサイ書の「子の手紙」であるエフェソ書の4章32節「互いに親切にし、憐(あわ)れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」と並んで、「神の側が赦してくださったのだから、赦し合いなさい」と記されている箇所です。
新約聖書において、「神の側から○○してくださったのだから、互いにそうし合いなさい」と教えられているは、他には以下の3カ所があります。それは、ヨハネ福音書に記されたイエスご自身の言葉と、ローマ書、フィリピ書というパウロの真性書簡の2カ所です。
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟(おきて)である。(ヨハネ15:12)
だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。(ローマ5:7)
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。(フィリピ2:3~5)
「愛し合いなさい」「受け入れ合いなさい」「へりくだり相手を自分よりも優れた者と考え合いなさい」。これらはすべてイエス・キリストの十字架を基にした言葉です。ヨハネ福音書15章12節は、十字架にかかる前のイエスご自身の言葉ですが、「わたしがあなたがたを愛したように」というのは、十字架の愛を前提とするものに相違ありません。
こうした「神の側から○○してくださったのだから、互いにそうし合いなさい」という教えが、コロサイ書とエフェソ書においては、「赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」と、「神の側が赦してくださったのだから、赦し合いなさい」となっているのです。
私たちは、イエス・キリストの十字架の死と復活により、罪から解放されています。しかしそこでとどまり、自分だけ喜んでいるとすれば、「神の国」という、人と人とのつながりのある共同体にはなり得ないのです。「赦されたのだから赦し合う」ということが、この共同体を建て上げていくために必要なのだと思います。それ故に、伝承されていた「互いに愛し合いなさい」というイエスの言葉から、パウロによる「受け入れ合いなさい」「へりくだり相手を自分よりも優れた者と考え合いなさい」という教えを経て、パウロの弟子が書いたとされるコロサイ書、エフェソ書においては、「赦し合いなさい」となっていったのではないかと考えるようになりました。そしてそのようにして、キリスト教は赦し合う共同体になっていったのではないでしょうか。
そうしますと、主の祈りの「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」(マタイ6:12、ルカ11:4)の捉え方が変わってきます。文語訳のこの文ですと、私たちが赦すということが「前提条件」になってしまっているように思えます。しかし調べてみますと、イエスの話していたアラム語には時制の区別がないことが分かりました。関田寛雄著『十戒・主の祈り』では、アラム語の上記の特質を提示した上で、マタイ福音書6章12節について、新改訳聖書では「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」のように、2つの独立文にして翻訳していることを紹介しています。そして、「この『赦しましたように』は、自己の罪の赦しの条件を意味するのではなく、隣人を赦すことと神に赦されることがいわば不可分の関係にあることを意味している」としています(同書154~155ページ)。ちなみに、上記の翻訳は新改訳聖書の第3版のものですが、新改訳2017はこれを、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」と、後半部を未完了形または未来形に翻訳し、「自己の罪の赦しの条件を意味するのではない」という趣旨をさらに一歩進めているように思えます。
この「赦し合い」をもとにして、「愛と平和の一つの体とされた」(14~15節)ということが記されているのです。
コロサイ書とエフェソ書は、「神の側の赦し」を前提として、私たちに赦し合うことを勧めています。このことを教えてくれたのがこの2書であり、私がこの2書を愛読する一因はそこにあります。そしてその動機は「善い業(アガソス / ἀγαθός)」なのです。コロサイ書とエフェソ書は、フィレモン書からそれを受け継いでいるというのが私の考えです。
クリスマスも間近になりました。私たちの罪を赦すために神の子がこの世に来られたことを、心から喜ぶ時としたいと思います。(続く)
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