私がこのコラムを執筆している目的は、「『コロサイ書の著者はフィレモン』『エフェソ書の著者はオネシモ』と見立てて、パウロ以後の初代教会において、パウロ、フィレモン、オネシモという師弟関係の系譜がどのような役割を果たしていたのかを、パウロの真性書簡である『フィレモン書』と、弟子の手によるものと言われる『コロサイ書』『エフェソ書』などから明らかにしていくこと」にあります。これは、この3つの書簡のメッセージをより明確にするためのものであり、3つの書簡が「親・子・孫」のような関係であることを前提として聖書の本文を読んでいくためのものです。しかし、コロサイ書とエフェソ書の著者が上記の2人であると考える理由は、コラムを進めていくためにはしっかり論述しておかなければなりません。
前回でコロサイ書の本文は読了しました。ここで、上記のように論点として大切な「コロサイ書の著者はフィレモンである」ということについて、本コラム執筆のためにコロサイ書を詳読して気が付いたことをまとめておきたいと思います。ただその前に、フィレモン著者説の論拠について、これまでにお伝えしている3点をあらためて記しておきます。なお、以下の叙述においてはすべて、フィレモン書の共同名宛人である妻アフィアが、フィレモンとの共同牧会者として、もしくはコロサイ書の共著者として関わっていると考えています。また、フィレモン書の共同名宛人であり、巡回宣教者と考えられるアルキポは、コロサイ書4章によればすでにコロサイにはいないですし、「アルキポによろしく」と記されているため著者とは考えにくく除外しています。
① フィレモン書におけるフィレモンは、家の教会の単なるパトロンではなく「牧者」である。フィレモンの家の教会とコロサイ教会は同一であり、従ってフィレモンはコロサイ教会の「牧者」ということになる。コロサイ教会に問題が起こったときにそれを解決しなければならない責任者は牧者フィレモンであり、コロサイ教会に異端的な教えが入ってきたことに対処するべきはフィレモンである。
② コロサイ書の著者は、フィレモン書をよく知っている。フィレモン書はその内容から、諸教会に回覧された書簡とは考えにくく、そうなるとフィレモン書はフィレモンの手元に残されていたことになる。従ってフィレモン書を一番よく知っているのはフィレモンであり、フィレモンがコロサイ書を執筆したと考えるのが自然である。
③ エフェソ書の著者がオネシモであることは、以前から言われていることであり、その説に立つならば、「親・子・孫」の関係にある3つの書簡の、「親」の書簡の著者はパウロであり、「孫」の書簡の著者はオネシモであるので、「子」の書簡の著者はパウロとオネシモの間に位置する者と推測できる。それは他でもなく、パウロの弟子であり、オネシモのパトロヌス(解放後の奴隷に対する元主人の立場・保護者)であるフィレモンである。
まず、①で挙げた「フィレモンの家の教会とコロサイ教会は同一である」については、エパフラスとオネシモ、アルキポの動きから、そのように言うことができると思います。フィレモン書23節には「キリスト・イエスのゆえにわたしと共に捕らわれている、エパフラスがよろしくと言っています」とあります。これはフィレモンの家の教会にエパフラスが相当影響を持っていることを示しています。コロサイ書1章7節には、「あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました」とあり、コロサイ教会の黎明期にエパフラスが福音を伝えたことを示しています(4章12節も参照)。このことから、「エパフラスが影響を持っているフィレモンの家の教会=エパフラスが福音を伝えたコロサイ教会」と考えることができます。
オネシモは、コロサイ書4章9節で「あなたがたの一人(エクス ヒューモーン / ἐξ ὑμῶν)忠実な愛する兄弟オネシモ」とされています。第2回でお伝えしましたが、「エクス ヒューモーン」は「あなたがたのところからの出身」と翻訳する方が良いでしょう。フィレモン書によるならば、オネシモがフィレモンの家の教会から宣教者になることがパウロの望みであり、コロサイ書4章7~9節によるならば、オネシモは宣教者としてパウロの周辺にいることが明らかです。オネシモは、フィレモンの家の教会=コロサイ教会出身の宣教者なのです。
アルキポについては、フィレモン書2節によるならば、この書の執筆時にはフィレモンの家の教会に滞在していた人ということになります。また、コロサイ書4章17節には、「アルキポに伝えてください」とあり、それはアルキポがコロサイ教会に滞在していたことを示しており、そこからも「フィレモンの家の教会=コロサイ教会」ということを見て取ることができます。以上の点から、「フィレモンの家の教会=コロサイ教会」と言い得ると私は考えています。
コロサイ書を詳読して気が付いたことは、特に2章からですが、「コロサイ書の著者はコロサイ教会というフィールドを熟知している」ということでした。人間の言い伝えにすぎない哲学、偽りの謙遜、天使礼拝、独り善がりの礼拝など、コロサイに在住して教会を牧会している者でないと知り得ない個別の事情が羅列されています。そのため、①の「フィレモンはコロサイ教会の牧者である」を補強することとして、「コロサイ教会の事情をよく知っているのはコロサイ在住のフィレモンであり、そしてまさにコロサイ教会の牧者なのだ」ということも言えると思います。
さらに気が付いたことは、第28回でお伝えした、コロサイ書2章14節の「証書」に関することです。この「証書」は、フィレモン書18節~19節前半に、パウロの自筆の債務証書の実例として記されており、これは②の「コロサイ書の著者がフィレモン書をよく知っている」ということを強く補強しています。そのため、この点からも「フィレモンがコロサイ書の著者である」ということが確認されると思います。
③の「エフェソ書の著者がオネシモであることは以前から言われていることである」については、次回エフェソ書の概論を書く予定ですので、そこでお伝えいたします。
著者論に関する大きなことは以上ですが、内容的には、コロサイ書はフィレモン書から「善い業(アガソス / ἀγαθός)」をしっかりと受け継いでいると感じました。第14回でお伝えしましたが、私はフィレモン書の中心メッセージは14節後半の「それは、あなたのせっかくの善い行い(アガソス / ἀγαθός)が、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです」だと考えています。
そして、コロサイ書の全体を詳読して感じたことは、この書簡は1章10節後半の「あらゆる善い業(アガソス / ἀγαθός)を行って実を結び、神をますます深く知るように」で主題を提示し、それを第30回でお伝えした3章1節~15節前半で「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦(ゆる)し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」と具体的に展開しているということでした。この3章1節~15節前半が、「善い業(アガソス / ἀγαθός)」の具体的な内容なのです。その核となるのが、「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」です。それは「主が受け入れてくださったのだから同じようにする」(ローマ書5章7節参照)ということでもありましょう。
「善い業を行う」とは、倫理的に正しいことを行うということではなく、キリストに倣いその赦しにあずかることによる行動なのです。そしてそれは、最終的には「相手を受け入れる」ことだと私は考えるのです。
そう捉えますと、コロサイ書の中心メッセージの元であるフィレモン書14節後半の「あなたの善い行い」は、奴隷オネシモを兄弟として受け入れ、奴隷から解放し、そこからさらにはオネシモを福音の働き人として自由にするということなのだと考えるのです。すべては「ねばならぬ」ではなく、キリストが私たちを自由にしてくださった、その自由の下での行動なのです。
次回から読むエフェソ書においても、「善い業(アガソス / ἀγαθός)」が使われています。エフェソ書も、この言葉を中心にして読んでいきたいと思います。(続く)
※ フェイスブック・グループ【「パウロとフィレモンとオネシモ」を読む】を作成しました。フェイスブックをご利用の方は、ぜひご参加ください。
◇