今回はエフェソ書1章7~10節を読みます。ここは日本語訳では幾つかの文に分かれていますが、原文ではひとつながりの文になっています。
7 わたしたちはこの御子において、その血によって贖(あがな)われ、罪を赦(ゆる)されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。8 神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、9 秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。10 こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭(かしら)であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。
7節に「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」とあります。これはコロサイ書1章14節の「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」と酷似しています。コロサイ書のこの節は、写本によっては「その血によって」が記されているものもあります。ただ、「罪を赦されました」の「罪」は、コロサイ書においては「ハマルティア / ἁμαρτία」が使われていますが、エフェソ書では「パラプトーマ / παράπτωμα」が使われています。パラプトーマはローマ書において9回使われており(『EKK新約聖書註解(10)エペソ人への手紙』55ページ参照、ローマ書5章に多く見られます)、フィレモン書以外のパウロの真性書簡は知らなかったともされるコロサイ書の著者(私はフィレモンと考えています)に対して、エフェソ書の著者(私はオネシモと考えています)は、ローマ書などのパウロの真性書簡をよく読んでいたと考えられます。エフェソ教会の監督であり、パウロ書簡集を蒐集(しゅうしゅう)したと考えられるオネシモならば、それは当然のことだといえます。
いずれにしても、エフェソ書がコロサイ書に依拠しているのは確実です。私はこのことから、フィレモン書でパウロが「予言」していた、「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです」(同書15~16節)が成就していると考えています。エフェソ書執筆時にフィレモンが存命であったかどうかは分かりませんが、フィレモンとオネシモは生涯兄弟関係にあったであろうし、オネシモは、パトロヌス(解放された奴隷の元主人)であり「兄弟」であったフィレモンの書いたコロサイ書を熟読していたのだろうと考えます。そしてそのことも、「コロサイ書フィレモン著者説、エフェソ書オネシモ著者説」を補強する要素になり得るだろうと考えています。
8~9節に「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました」とあります。「この恵みを」は、原文では一つ前の7節にある言葉です。日本語として翻訳するためにはこのようにせざるを得なかったのだと思います。「秘められた計画(ミューステーリオン / μυστήριον)」は、第22回でもお伝えしましたが、これもコロサイ書とエフェソ書をつなぐ言葉だと私は考えています。コロサイ書では「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです」(同書1章26節)とありました。エフェソ書では、この言葉が3章3節と6章19節でも繰り返されており、より大きく展開されています。
10節の「こうして、時が満ちるに及んで」は、ガラテヤ書4章4節の「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」を想起する言葉です。しかし、ガラテヤ書の「時」は「クロノス / χρόνος」が使われているのに対し、エフェソ書のこの箇所では「カイロス / καιρός」(複数)が使われています。ガラテヤ書ではイエス・キリストが地上に来られるまでの長い時を指しているのに対し、エフェソ書では「その次のこと、最終的なこと」が起こった時を指しているように思えます。この箇所は、パウロの真性書簡であるガラテヤ書の内容を意識しているように思えます。
続いて、「救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」とありますが、これはコロサイ書1章18節の「また、御子はその体である教会の頭です」に対応しているように思えます。ただ、コロサイ書では「頭(ケファレー / κεφαλή)」という名詞が使われているのに対し、ここでは「まとめられる(アナケフェライオオー / ἀνακεφαλαιόω)」という動詞が使われており、コロサイ書からは幾分違った内容に展開されているようにも思えます。
いずれにしても、エフェソ書はコロサイ書を意識しつつ、ローマ書やガラテヤ書といったパウロの真性書簡との関連が見られるのが特徴であるように思えます。(続く)
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