今回はエフェソ書1章15~23節を読みます。これだけ長い文章ですが、原文では19節の終わりに読点が一度打たれているだけです。内容的には、ひとまとまりになっているとしてよいと思います。
15 こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、16 祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、18 心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。19 また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。20 神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、21 すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。22 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
エフェソ書1章3~14節は「頌栄」でした。1章2節と15節の間に頌栄が挿入されているのです。したがって、15節で書簡が改まって書き出されていると捉えてよいと思います。
15~16節は、フィレモン書の書き出し部分である4~5節と、コロサイ書の書き出し部分である1章3~4節に酷似しています。3つの箇所を併記します。
フィレモン書4~5節 | コロサイ書1章3~4節 | エフェソ書1章15~16節 |
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4 わたしは、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつもわたしの神に感謝しています。5 というのは、主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです。 | 3 わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。4 あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。 | 15 こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、16 祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。 |
エフェソ書1章15~16節は、フィレモン書の4節と5節を入れ換えて、「あなた(フィレモン)」を「あなたがた」に換えた形になっています。コロサイ書1章3~4節は、フィレモン書4~5節のうち「あなたのことを思い起こして」が省略され、「あなたの信仰」と「あなたの愛」が、「あなたがたが…持っている信仰」と「あなたがたが・・・抱いている愛」に換わっている形になっています。これらは、私が繰り返し申し上げていますところの「フィレモン書―コロサイ書―エフェソ書」が「親―子―孫」の関係にあることの証左であろうかと思います。
そこでふと考えることは、「コロサイ書にもエフェソ書と同じように、『あなたがたのことを思い起こし』という言葉があってもよかったのではないのか」ということです。しかし、コロサイ書の著者がフィレモンであるなら、お伝えしていますようにフィレモンの家の教会はコロサイ教会と同一であり、フィレモンはコロサイ教会の牧者でしたから、普段から顔を見ている人たちであり、そのようには書かなかった、いや書けなかったのではないかと推測しています。このあたりにも「コロサイ書フィレモン著者説」を感じ取ることができます。
一方、オネシモがエフェソ教会の監督であり、エフェソ書の著者であったとしても、エフェソ書はエフェソ教会宛ての手紙というよりも、不特定の相手に対するものです。そのため、そのあたりを気にすることなく、フィレモン書におけるパウロの言葉を、単に「あなた」を「あなたがた」に換えて用いたとすることはできるのではないかと思います。
さて、15節では「こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き」と、読者たちの持っている「信仰」と「愛」が記されています。そして18節では、「(略)神の招きによってどのような希望が与えられているか」と、希望に結び付けられています。パウロは、「信仰と愛と希望」をセットで伝えています(コリント一13:13、ガラテヤ5:5~6、テサロニケ一1:3、5:8参照)。その場合、パウロの述べる希望とは、かの日にイエス・キリストにまみゆる希望という「時間軸を中心にした終末論的な希望」です。
第17回でお伝えしましたように、コロサイ書における希望は「空間軸を中心にした終末論的な希望」です。そしてそれは、「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」(コロサイ1:27)とあり、希望はキリストの栄光と関係することでした。
エフェソ書でも、「神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように」(エフェソ1:18)と、希望は栄光に関連することです。そしてそれは、教会の頭であるキリストの栄光の希望なのです。
旧約聖書において「栄光」とは、礼拝する場所におられる存在そのものでした。出エジプトの時には、臨在の幕屋の上におられました(出エジプト40:34~35)。ソロモンがエルサレムに神殿を建てたときには、密雲としてまた火として神殿におられました(列王記上8:10~11、歴代誌下7:1~3)。イスラエルの民がバビロンに移住したときには、4つの生き物の姿としてケバル川の河畔におられました(エゼキエル1:5)。18節の「どれほど豊かな栄光に輝いているか」を読みますと、これらの箇所を連想します。つまり、エフェソ書において栄光とは、キリストを頭とする教会、すなわち礼拝する場所に満ちておられると伝えられているように思えるのです。先ほど見たように、エフェソ書においても「信仰と愛と希望」が伝えられていますが、エフェソ書の希望とは、キリストを頭とする教会に満ちておられる栄光を見る希望なのです。
20~21節には、「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」と、キリストの栄光が詩的に記されています。これは、当時の教会で歌われていた賛美歌であるともいわれています。復活のキリストに対する賛美歌です。
22節には、旧約聖書から詩編8編7節が引用されています。コロサイ書には旧約聖書の直接引用はありませんが、エフェソ書にはこの他にも旧約聖書からの引用があります。私がエフェソ書の著者と考えているオネシモは、獄中のパウロから、当時の聖書(今日の旧約聖書)を学んだのではないかと考えています。フィレモン書10節の「わたしの子オネシモ」というのは、ラビとしての師弟関係から来ている言葉であると考えているからです。だからオネシモは、その後奴隷から解放されてパウロの元に行って、さらに旧約聖書を学んだのです。いずれにしましても、「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました」とあります。20節から述べられていた復活のキリストが、教会の頭として与えられたということです。
23節に、「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」と、栄光のキリストが教会に満ちておられる姿が、旧約聖書の聖所や神殿に満ちている栄光の姿と同じように記されています。エフェソ書の伝えている「希望」とは、復活され天におられる教会の頭であるキリストが、栄光の姿として、教会に満ち満ちておられることへの希望なのです。(続く)
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