今回は2章1~10節を読みます。この箇所には、フィレモン書とコロサイ書を貫通する「以前(ポテ / ποτέ)~・今(ニュン / νῦν)~」構文と「善い業(アガソス / ἀγαθός)」が見られる箇所です。
1 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。2 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。4 しかし、憐(あわ)れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――6 キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。7 こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。10 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
「以前~・今~」構文
ここには「以前(ポテ / ποτέ)」が2度見られます。最初の「以前(ポテ / ποτέ)」は新共同訳聖書では上記のように1節になっていますが、原文では2節にあります。新改訳2017では、「1 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいたものであり、2 かつて(ポテ / ποτέ)は、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い」と、2節になっています。私は原文に照らし合わせた場合、新改訳2017の翻訳の方がふさわしいように思えます。聖書協会協同訳でも「かつて」が2節になっていますが、この部分の翻訳は、3つの中では新改訳2017が一番良いと思います。
しかし、これと対になっている「今(ニュン / νῦν)」は、「不従順な者たちの内に今も働く霊」の中にあり、「あなたがたは、以前(ポテ / ποτέ)」に対応しているわけではありません。「以前」は「あなたがた」に、「今」は「不従順な者たちの内」にと、別の相手に使われているからです。
けれどもこの意味のつながらない「以前~・今~」は、図式として3~5節で展開されていると思われます(シュナッケンブルク『EKK新約聖書註解(10)エペソ人への手紙』96~97ページ参照)。
2つ目の「以前(ポテ / ποτέ)」は、3節に「わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」と記されています。「今(ニュン / νῦν)」は、言葉としては記されていませんが、4~5節に「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」と、事柄として記されています。ここに、エフェソ書の中で見られた「以前~・今~」構文の1つ目を、展開された形ではありますが見ることができます。これはエフェソ書が、コロサイ書→フィレモン書とさかのぼってつながっていることの証左であろうと思います。ちなみに、エフェソ書においてこの構文は、2章11~13節と5章8節でも示されています。
ただ、第10回でお伝えしましたように、フィレモン書を含むパウロの真性書簡において、「以前~・今~」構文は、「人生におけるキリストにあっての大きな転換」を意味していますが、第26回でお伝えしましたように、コロサイ書ではパウロの「以前~・今~」を踏襲しつつ、特に洗礼の前と後を意味していました。エフェソ書でもそれは同じです(同書97ページ)。
天の王座に着かせてくださった
6節に「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」とあります。「キリストと共に復活した」というのは、コロサイ書と同じ書き方です(2章12節、3章1節)。パウロの真性書簡においては、私たちの復活は終末の出来事です。しかし、コロサイ書とエフェソ書では、復活は現在の出来事となっています。けれどもコロサイ書は、天については「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」(3章1節)とされ、天は望み見るものでした。それがエフェソ書では、「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」(2章6節)とされ、すでに天にいる者たちとされています。これは「神の右の座におられるキリスト」(1章20節)を頭とする、教会につながっていることを意味している言葉であって、エフェソ書が「教会とは何か」ということを伝えているが故の言葉であると思います。
来るべき世に現す
7節には、「こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです」とあります。6節との関係が大切になるところだと思います。すでに天の座に着かされているとされる者たちに対して、「来るべき世に現す」とされています。これについては、シュナッケンブルクは次のように書いています。
これ(筆者注・「来るべき世に現す」と表記されていること)によってわたしたちが「天の座につく」ことが(6節)撤回されるわけではなく、むしろ証明される。わたしたちは「キリスト・イエスにあって」すでにそこに場を持つ。ただわたしたちはまだこの世に生きているので、彼の栄光にまだ完全にはあずかっていない。(同書108ページ)
教会に連なることにおいて、キリストにあって天の座に着かされている者も、まだキリストの栄光に完全にはあずかっていないのです。だから「来るべき世に現す」とされるのです。イエス様は福音宣教の第一声で、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言われました(マタイ4:17)。私たちは天の国に「近づい」ているのであって、まだそこに入っているわけではないのだということなのだと思います。主の祈りで、「御国を来たらせたまえ」と祈るのも同じ意味合いなのでしょう。来る日を待ち望みつつ歩むということが大切なのだと思います。
善い業
来る日を待ち望みつつ歩むということは、何をすることなのでしょう。この点は、私の所属している日本基督教団の信仰告白は、「愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む」と、するべきことをはっきりさせています。「愛のわざに励むこと」です。ただそれは、あくまでもキリストの愛に倣ってということで、慈善事業を意味していません。それがまさに「善い業(アガソス / ἀγαθός)」を行うことなのです。8~9節に「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」とあります。愛の業を行うことが信仰の条件なのではありません。「信仰により、来るべき日に希望を持って、愛の業を行う」ということであり、それが10節に記されている「善い業」を行うことなのです。この言葉もまた、フィレモン書、コロサイ書から受け継がれていることです。
私は、この3書を読むたびに、パウロからフィレモンへ、そしてパウロとフィレモンからオネシモへ受け継がれていることがあるのだと実感し、「コロサイ書の著者はフィレモン」「エフェソ書の著者はオネシモ」であるとますます強く感じるのです。(続く)
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