今回はエフェソ書5章6~20節を読みます。
6 むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。7 だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。8 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。9 ――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。―― 10 何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。11 実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。12 彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。13 しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。14 明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」15 愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。16 時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。17 だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。18 酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、19 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。20 そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。
以前と今
8節は、本コラムで繰り返してお伝えしている「以前(ポテ / ποτέ)~・今(ニュン / νῦν)~」構文です。この構文は、フィレモン書、コロサイ書、エフェソ書を貫く大切なものであると私は考えています。そこで、3書の著者がそれぞれ「以前と今」をどう捉えているかを整理しておきたいと思います。
フィレモン書:人生におけるキリストにあっての大きな転換。(第10回参照)
コロサイ書:キリストにあっての転換ではあるが、特に洗礼の前後を意味している。(第21回参照)
エフェソ書:洗礼を背景としつつも、「異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者という分けられていた両者が一つとされる」という倫理的な向上を示し、かつ教会という場所が明らかにされている。(2章11~13節、第45回参照)
フィレモン書の著者であるパウロから、コロサイ書の著者と推定されるフィレモン、エフェソ書の著者と推定されるオネシモへと継承されつつも、時代の変遷などによるのか、ニュアンスに若干の相違は見られます。しかし、いずれもキリストにあっての転換を意味しており、それが3書に強く共通しています。
今回の箇所では、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」(8節)と、暗闇(以前)から光(今)への転換が示されています。これも2章11~13節同様、倫理的な向上を意味するものです。そしてやはり、教会という場所に向けて述べられていると思います。
善意と正義と真実
9節に「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです」とあります。「今や」光となった教会のメンバーからは、善意と正義と真実が生じると述べられています。これは「徳目表」といわれるガラテヤ書5章22~23節の「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」に倣っていると考えられます(『ギリシア語新約聖書釈義事典(1)』32ページ参照)。
ガラテヤ書で「霊の結ぶ実」と記されている言葉が、エフェソ書では「光」とされています。そして、両方に共通する言葉が「善意(アガソーシュネー / ἀγαθωσύνη)」です。この単語は、本コラムでしばしば取り上げている「善い業(アガソス / ἀγαθός)」の変形語です。これも、フィレモン書、コロサイ書、エフェソ書を貫通している概念で、とても大切なことです。私は、「善い業」とは他者を受け入れることが基本だと考えています。
キリストに照らされる
14節の「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる」は、以下のような三行詩として当時の教会で歌われていたともいわれています(ルドルフ・シュナッケンブルク著『EKK新約聖書註解(10)エペソ人への手紙』279ページ参照)。
眠りについている者、起きよ。
死者の中から立ち上がれ。
そうすれば、キリストはあなたを照らされる。
今回の箇所では「光」が強調されていますが、それはキリストに照らされることによって、つまり「神がキリストによってあなたがたを赦(ゆる)してくださったように、赦し合う」(4章32節)ことによって、「光の子となる」ことができるのです。「倫理的な向上」ということをお伝えしましたが、それはキリストに照らされることにおいてそうされるのです。
賛美と感謝
18~20節に「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」とあります。これは、コロサイ書3章16~17節の「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」を基にしていると思われます。賛美と神への感謝が求められています。教会はいつの時代もこれをなし、今後も行っていくのです。(続く)
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