コヘレト書3章の「無限」と「神の永遠」
「コヘレト書を読む(9)」において、コヘレトは「無限」と「神の永遠」を峻別しているとお伝えしました。その際、そのことを説明するためにコヘレト書3章1~17節の集中構造分析を試みました。その中心部分を対称形にして表にします。〔 〕内は対称部の題と考えられる言葉です。
E〔無限〕 11 また、「ハーオーラーム(ヘブライ語原文、新共同訳では『永遠』と翻訳、筆者は『無限』と理解している)」を思う心を人に与えられる。 |
E´〔無限〕 15 今あることは既にあったこと、これからあることも既にあったこと。 |
F〔神の永遠への畏れ〕 それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。 |
F´〔神の永遠への畏れ〕 すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。 |
G〔わたしは知った〕 12 わたしは知った。 |
G´〔わたしは知った〕 14 わたしは知った。 |
H〔中核〕 人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。13 人だれもが飲んで食べ、その労苦によって満足するのは、神の賜物だ、と。 |
上記のEとE´の部分は「無限」の概念を表しており、それに挟まれるようにしてFとF´に、始めも終わりも分からない「神の永遠」が示され、さらにはG-H-G´において「今この時に永遠の神とつながることの大切さ」が説かれているとお伝えしました。ハーオーラームは「永遠」を意味するオーラームに定冠詞が付いた形であり、それは「無限」と翻訳できるからです。
また「無限」は、始めと終わりのあるギリシャ思想における時間の最高概念であり、始めも終わりも分からないと考えられるヘブライ語の「永遠」(オーラーム)の概念は、それよりも上の次元であるということもお伝えしました。
ヨハネ黙示録における始めと終わり
さて今回、このことを新約聖書と関連付けるならば、連想させられるのはヨハネ黙示録の以下の箇所です。
また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。」(21章6節)
わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。(22章13節)
アルファはギリシャ語アルファベットの最初の文字であり、オメガは最後の文字です。それを示した上で、黙示録のイエスは、自身について「初めであり、終わりである」と語られています。ここを読みますと、イエスすなわち神が、始めと終わりを持っている存在であり、コヘレトの伝える「始めも終わりも分からない永遠の神」とは矛盾するようにも思えます。
イザヤ書における始めと終わり
黙示録のこの箇所は、イザヤ書44章6節「イスラエルの王である主イスラエルを贖(あがな)う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない」を基にしているといわれています。
これについて、P・D・ハリソン著『現代聖書注解 イザヤ書40-66章』の同節の注解においては以下のように述べられています。
冒頭の六節の陳述は、全裁判過程の根底にある神学的教義を述べている。判事である神は、自分自身のために語る。なぜなら争われているのは彼の権威だからである。「わたしは始めであり、終わりである。わたしをおいて神はない」。ここにおいて唯一神教の原則が、あいまいさのない明瞭さで語られる。そしてそれによってここは、古代近東の多神教からイスラエルに全世界の創造主であり裁き主である唯一の神への信仰が出現する、頂点の段階となっている。(141ページ)
イザヤ書44章は、「第2イザヤ書」(イザヤ書40~55章)と呼ばれる区分にあり、紀元前6世紀のバビロン捕囚の時代に、バビロンにおいて書かれたものです。多神教の環境において、唯一神を語らなければならなかったのです。おそらく唯一神を強調するために、「わたしは初めであり、終わりである」という表現になったのでしょう。そしてそれが、ヨハネ黙示録で引用されたのです。
コヘレトの時代に問題とされていたこと
紀元前3世紀と考えられるコヘレトの時代は、多神教という環境よりも、ギリシャ思想という環境において、イスラエルの神を強調する必要があったと思われます。ですからコヘレトは、太陽の下のものは皆むなしいと語り、太陽の下のものであるギリシャ思想における「無限」(全時間)との違いを強調するために、無限の外側にある「神の永遠」を強調しているのだと私は考えています。
そのため、ヨハネ黙示録においては「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである」と、イエスすなわち神が、始めと終わりがある方であるように記されていますが、それは今回述べたようなことが背景にあることであり、コヘレトの伝える「始めも終わりも分からない永遠の神」という概念と矛盾するものではないと私は考えます。(続く)
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