57回にわたって「パウロとフィレモンとオネシモ」というコラムを連載させていただきましたが、今回から毎週水曜日に、以前に一度掲載した「コヘレトと新約聖書」の連載をさせていただきます。3月末までの短期連載の予定です。どうぞよろしくお願いいたします。
コヘレト書2章と山上の説教の類似性
今回は、コヘレト書2章と、マタイ福音書に記されたイエスの「山上の説教」のうち、6章25~34節(「思い悩むなぺリコーぺ」と仮称します)の比較読みをしたいと思います。両箇所には驚くほどに共通点があります。
コヘレト書2章4~25節 | マタイ福音書6章25~34節 |
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4 大規模にことを起こし、多くの屋敷を構え、畑にぶどうを植えさせた。5 庭園や果樹園を数々造らせ、さまざまの果樹を植えさせた。6 池を幾つも掘らせ、木の茂る林に水を引かせた。7 買い入れた男女の奴隷に加えて、わたしの家で生まれる奴隷もあり、かつてエルサレムに住んだ者のだれよりも多く、牛や羊と共に財産として所有した。8 金銀を蓄え、国々の王侯が秘蔵する宝を手に入れた。男女の歌い手をそろえ、人の子らの喜びとする多くの側女を置いた。9 かつてエルサレムに住んだ者のだれにもまさって、わたしは大いなるものとなり、栄えたが、なお、知恵はわたしのもとにとどまっていた。10 目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ、どのような快楽をも余さず試みた。どのような労苦をもわたしの心は楽しんだ。それが、労苦からわたしが得た分であった。 | 25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔(ま)かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 |
11 しかし、わたしは顧みた。この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない。(中略) | 30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。 |
22 まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。23 一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。 | 31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 |
24 人間にとって最も良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは、神の手からいただくもの。25 自分で食べて、自分で味わえ。 | 33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」 |
どちらも「栄華を極めたソロモン」を題材として書き進められています。右側に提示した山上の説教の「栄華を極めたソロモンでさえ」というくだりを読むと、私は、列王記上で伝えられているソロモン王ではなく、コヘレト書2章に記されている「コヘレトが扮(ふん)した栄華を極めたソロモン王」を連想してしまうのです(コヘレト書の著者がソロモン王ではないことの説明は「コヘレト書を読む(1)」参照)。それほどまでに両箇所は似通っているのです。
栄華を極めたソロモンでさえ→不信仰→思い悩むな→神の国
注目点は両箇所の文章構成です。コヘレト書2章は、栄華を極めたソロモン王に扮したコヘレトについて書きつづられています。「思い悩むなぺリコーぺ」は、栄華を極めたソロモン王にも勝る、野の花などの被造物について語られることで始められています。
コヘレト書2章は、11節で「しかし、わたしは顧みた。この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない」と、それらの栄華が、神(「太陽の上」の存在)とは無関係であったことが述べられています。つまり「不信仰」であったということだと思います。「思い悩むなぺリコーぺ」では、「信仰の薄い者たちよ」と、聴衆(または読者)に対して、語られた者が不信仰であるということの提起がなされています。
コヘレト書2章では次に、王の後継者について記されていますが、22~23節において「一生、人の務めは痛みと悩み」と、痛みや悩みから脱出する道が探られる筆致になっています。「思い悩むなぺリコーぺ」においては短刀直入に、「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って思い悩むな」と、思い悩みからの退出が命じられています(「コヘレト書を読む(7)」参照)。
コヘレト書2章では次の24~25節で、コヘレト書のメインテーマである「神様からのプレゼントである食べることと飲むこと」を「今この時」にすることが記されます。私はこのことこそが、コヘレト書における「神の国」の最大のモチーフだと考えています(「コヘレト書を読む(8)」参照)。「思い悩むなぺリコーぺ」においては33~34節で、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」「明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」と、やはり「今この時」に「神の国」を求めることが語られています。
このように、コヘレト書2章と「思い悩むなぺリコーぺ」は、内容・構成に大きな類似が見られます。私はそこに両箇所の関連性を見ます。
本コラムの見通し
本コラムは、「イエスや新約聖書の著者たちはコヘレト書を知っていたか」という問いを軸にして執筆していきます。しかし、これらのことについて論述したものを知りませんので、新約聖書の中に見られるコヘレト書の「影」を、私なりに追っていくものとしたいと考えています。従って、一つの結論を求めるというようなものではありません。(続く)
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