12 また、わたしは顧みて、知恵を、狂気と愚かさを見極めようとした。王の後を継いだ人が、既になされた事を繰り返すのみなら何になろうか。13 わたしの見たところでは、光が闇にまさるように、知恵は愚かさにまさる。14 賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に。しかしわたしは知っている、両者に同じことが起こるのだということを。15 わたしはこうつぶやいた。「愚者に起こることは、わたしにも起こる。より賢くなろうとするのは無駄だ。」これまた空しい、とわたしは思った。16 賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか。17 わたしは生きることをいとう。太陽の下に起こることは、何もかもわたしを苦しめる。どれもみな空しく、風を追うようなことだ。
18 太陽の下でしたこの労苦の結果を、わたしはすべていとう。後を継ぐ者に残すだけなのだから。19 その者が賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。いずれにせよ、太陽の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまた、空しい。20 太陽の下、労苦してきたことのすべてに、わたしの心は絶望していった。21 知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。22 まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。23 一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。(2:12~23、新共同訳)
旧約聖書のダビデ、ソロモン、ヒゼキヤ、ヨシヤは、ダビデ王朝の4人の王ですが、私はこの4人を「4大王」と名付けています。主の目に適(かな)う歩みをしつつ、同時に国を発展させた王たちだからです。聖書には、この4人の王が犯した過ちはほとんど記されていません。しかし、ヨシヤを除くと、それぞれの王が犯したヘマが書き残されています。ダビデにはバト・シェバ事件があります(サムエル記下11~12章)。ソロモンには晩年の偶像崇拝があります(列王記上11章)。ヒゼキヤは、バビロンからの使者に宝物庫のすべてを見せてしまいます(列王記下20章、イザヤ書39章)。これらの出来事は、それぞれの王の存命中のこととして伝えられています。しかしソロモンについてはその死後にも、息子レハベアムの出来事の中で、失敗談が伝えられています。列王記上12章のその話を読んでみましょう。
すべてのイスラエル人が王を立てるためにシケムに集まって来るというので、レハブアムもシケムに行った。ネバトの子ヤロブアムは、ソロモン王を避けて逃亡した先のエジプトにいて、このことを聞いたが、なおエジプトにとどまっていた。ヤロブアムを呼びに使いが送られて来たので、彼もイスラエルの全会衆と共に来て、レハブアムにこう言った。「あなたの父上はわたしたちに苛酷な軛(くびき)を負わせました。今、あなたの父上がわたしたちに課した苛酷な労働、重い軛を軽くしてください。そうすれば、わたしたちはあなたにお仕えいたします。」 彼が、「行け、三日たってからまた来るがよい」と答えたので、民は立ち去った。
レハブアム王は、存命中の父ソロモンに仕えていた長老たちに相談した。「この民にどう答えたらよいと思うか。」 彼らは答えた。「もしあなたが今日この民の僕となり、彼らに仕えてその求めに応じ、優しい言葉をかけるなら、彼らはいつまでもあなたに仕えるはずです。」 しかし、彼はこの長老たちの勧めを捨て、自分と共に育ち、自分に仕えている若者たちに相談した。「我々はこの民に何と答えたらよいと思うか。彼らは父が課した軛を軽くしろと言ってきた。」 彼と共に育った若者たちは答えた。「あなたの父上が負わせた重い軛を軽くせよと言ってきたこの民に、こう告げなさい。『わたしの小指は父の腰より太い。父がお前たちに重い軛を負わせたのだから、わたしは更にそれを重くする。父がお前たちを鞭で懲らしめたのだから、わたしはさそりで懲らしめる。』」
三日目にまた来るようにとの王の言葉に従って、三日目にヤロブアムとすべての民はレハブアムのところに来た。王は彼らに厳しい回答を与えた。王は長老たちの勧めを捨て、若者たちの勧めに従って言った。「父がお前たちに重い軛を負わせたのだから、わたしは更にそれを重くする。父がお前たちを鞭で懲らしめたのだから、わたしはさそりで懲らしめる。」 王は民の願いを聞き入れなかった。(列王記上12:1~15)
どうやらソロモン王は在位中に、イスラエルの民、わけても北イスラエルの住民に過酷な労働を課し、北イスラエルの住民から反発を買っていたようです。このことは存命中のソロモンの話からは分らない、彼の失敗談といえるものでしょう。そして、親の失敗を繰り返さないようにするのが「賢い人」であると思うのですが、息子のレハベアムは、長老たちの忠告には従わず、父と同じことを繰り返すどころか、さらに過酷な労働を課すとまで言ってしまったのです。レハベアムは、この失敗で結果的に北イスラエルを失うことになります。父の失敗に学ぼうとしなかったレハベアムの「愚かさ」を示した出来事であろうかと思います。
今回コヘレト書から取り上げる箇所では、「また、わたしは顧みて、知恵を、狂気と愚かさを見極めようとした」(12節前半)と、コヘレトが「知恵と愚かさの探求」を行ったことが、まずは伝えられています。ソロモン王に扮(ふん)していたコヘレトは、王の息子のレハベアムを持ち出すことで、「愚かさ」を語ろうとしていると考えられます。「王の後を継いだ人が、既になされた事を繰り返すのみなら何になろうか」(12節後半)というのは、レハベアムがソロモンの失敗を繰り返した出来事を指していると、私は捉えています。
コヘレトは続けて、「わたしの見たところでは、光が闇にまさるように、知恵は愚かさにまさる。賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に」(13~14節前半)と言います。知恵を愚かさよりも優位に置いているのです。旧約聖書において、コヘレト書と同じ知恵文学である箴言に、「知恵ある子は父の喜び、愚かな子は母の嘆き」(10:1)とあることなどからすると、「知恵を優位とする『知恵と愚かさの比較』」という考え方は、コヘレトの生きていた時代には、すでにあったものと思われます。コヘレトに固有なことはむしろ、次の「しかしわたしは知っている、両者に同じことが起こるのだということを」(14後半)、「賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか」(16後半)ということでしょう。死において知者も愚者も等しくなるということ。コヘレトはそこに、知者になろうとする「骨折り(アーマル / עָמַל =前回を参照)」の空しさを感じ取っているように思えます。
18~19節では、レハベアムを通してのことからもう一つ、「後継者」に関することが取り上げられていると思われます。「太陽の下でしたこの労苦の結果を、わたしはすべていとう。後を継ぐ者に残すだけなのだから。その者が賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。いずれにせよ、太陽の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまた、空しい」 ソロモン王は、自分の築き上げた富を、レハベアムという「愚者」に引き渡すことになってしまいました。コヘレトも「知恵と知識と才能を尽くして労苦(アーマル / עָמַל‘)した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えねばならない」(21節)と言います。
結局、「一生、人の務めは痛みと悩み」(23節)とコヘレトは言います。この「悩み」という言葉はヘブライ語で「カアス / כּעַס」といいます。1章18節で読んだ「知恵が深まれば悩みも深まり」の「悩み」と同じ言葉です。ヘブライ語辞典を引いてみますと、この言葉には「心痛、悲しみ、怒り、苛(いら)立ち」といった意味があるようです。動揺している様を表している言葉であるように思えます。私はこの言葉が、新約聖書の「思い悩み(メリムナオー / μεριμνάω)」という言葉に該当すると捉えています。
私にとって、「思い悩み」という言葉が語られている最も印象的な箇所は、イエスの山上の説教の中の次の言葉です。
なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイ6:28~34)
イスラエルを旅行したことがありますが、その時に「山上の説教の丘」と呼ばれている所に行きました。花がとても美しく咲いていました。「イエス様はこういう花を見ながら語られたのだろうなぁ」と思わされたものです。「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」という言葉が響いてきました。「だから思い悩む必要はない」と、イエスは言われたのです。この「思い悩み」が、コヘレトの言う「悩み(カアス / כּעַס)」に該当するのではと考えています。
後継者の問題で将来を案じ、「一生、人の務めは痛みと悩み」と言ったコヘレトが気付いていくことは、「思い悩む必要はない」ということではないかと考えています。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」 これはコヘレトよりずっと後のイエスの言葉ですが、コヘレトはさまざまな探索の結果、この視点に向かわされるように感じています。ソロモン王に扮し、「栄華を極めた」体験をしたコヘレトは、しかし結局「思い悩み」から抜け出せませんでした。けれども「神の国と神の義」を求めたコヘレトは、「喜び(シムハー / שִׂמְחָה=前回を参照)」を得ることになる。私はそう考えています。(続く)
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