1 私は心の中で言った。「さあ、喜びであなたを試そう。幸せを味わうが良い。」 しかし、これもまた空であった。2 笑いについては馬鹿げたこと、と私は言い、また喜びについては、それが何になろう、と言った。3 私はぶどう酒で体を目覚めさせようと心に決めた。私は知恵によって心を導くが、しかし、天の下、人の子らが短い生涯に得る幸せとは何かを見極めるまで、愚かさに身を委ねることにした。(2:1~3、聖書協会共同訳パイロット版)
4 大規模にことを起こし、多くの屋敷を構え、畑にぶどうを植えさせた。5 庭園や果樹園を数々造らせ、さまざまの果樹を植えさせた。6 池を幾つも掘らせ、木の茂る林に水を引かせた。7 買い入れた男女の奴隷に加えて、わたしの家で生まれる奴隷もあり、かつてエルサレムに住んだ者のだれよりも多く、牛や羊と共に財産として所有した。8 金銀を蓄え、国々の王侯が秘蔵する宝を手に入れた。男女の歌い手をそろえ、人の子らの喜びとする多くの側女を置いた。9 かつてエルサレムに住んだ者のだれにもまさって、わたしは大いなるものとなり、栄えたが、なお、知恵はわたしのもとにとどまっていた。10 目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ、どのような喜びをも余さず試みた。どのような労苦をもわたしの心は喜んだ。それが、労苦からわたしが得た分であった。11 しかし、わたしは顧みた、この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない。(2:4~12、新共同訳、10節の下線部分は聖書協会共同訳パイロット版)
日本聖書協会は、2018年末に「聖書 聖書協会共同訳」という新しい翻訳の聖書を刊行予定ですが、そのためのパイロット版が15年より発行され、この3月まで修正意見のフィードバックが集められていました。今回のテキストのうち1~3節は、そのパイロット版の翻訳が適切だと思いましたので、それを掲載させていただきました。
前回、知恵の探求に失敗したコヘレトは、今度は「喜び(シムハー / שִׂמְחָה)」の探求に向かいます。「さあ、喜びであなたを試そう」と自分自身に向かって語ります(1節)。この「喜び」も、コヘレト書において繰り返されている言葉です。前回、「知恵」は「神の知恵」と「世の知恵」に分けられているとお伝えしましたが、「喜び」は、コヘレト書全体を読みますと、「神から与えられた喜び」と「自分で得た喜び」に分けられるようです。さてでは、コヘレトが今回試した「喜び」は、どちらだったのでしょうか。
3節では、コヘレトは「知恵によって心を導くが、しかし、天の下、人の子らが短い生涯に得る幸せとは何かを見極めるまで、愚かさに身を委ねることにした」と語ります。「知恵によって心を導く」の「心」は、ヘブライ語で「レーブ(לֵב)」といいますが、「理性」と翻訳することもできます。ですから「知恵によって理性を導く」、言い換えれば「理性を保つ」ということです。3節の最後の部分、「愚かさに身を委ねる」は、直訳では「愚かさをつかまえる」となります。欲望、特に情欲やむさぼりといった、愚かしい欲望を満たすことを意味していると思われます。つまり、3節でコヘレトは「理性を保ちつつ、欲望を満たそう」と言っているのです。
コヘレトは欲望を満たすために、知者ソロモン王に扮した1章に続いて、今度は栄華を極めたソロモン王に扮します。4~8節にそのさまが記されていますが、まずはソロモン王の栄華について、列王記上から幾つか読んでみましょう。
ソロモンの得た食糧は、日に上等の小麦粉三十コル、小麦粉六十コル、肥えた牛十頭、牧場で飼育した牛二十頭、羊百匹であり、その他、鹿、かもしか、子鹿、肥えた家禽(かきん)もあった。(5:2~3)
シェバの女王は、ソロモンの知恵と彼の建てた宮殿を目の当たりにし、また食卓の料理、居並ぶ彼の家臣、丁重にもてなす給仕たちとその装い、献酌官、それに王が主の神殿でささげる焼き尽くす献げ物を見て、息も止まるような思いであった。(10:4~5)
ソロモン王の杯はすべて金、「レバノンの森の家」の器もすべて純金で出来ていた。銀製のものはなかった。ソロモンの時代には、銀は値打ちのないものと見なされていた。王は海にヒラムの船団のほかにタルシシュの船団も所有していて、三年に一度、タルシシュの船団は、金、銀、象牙、猿、ひひを積んで入港した。(10:21~22)
彼には妻たち、すなわち七百人の王妃と三百人の側室がいた。(11:3)
ソロモンは栄華を極め尽くした王です。4~8節によれば、コヘレトはこのような記述に照らし合わせて、ゴージャスな生活をしたのです。実際にそれをやったのか、架空のこととしてであったのかは分りません。ともあれその結果、コヘレトは「かつてエルサレムに住んだ者のだれにもまさって、わたしは大いなるものとなり、栄えた」(9節前半)と言います。知恵の探求をしたときに、「見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった」(1:16)と言ったのと似ています。何だか知恵の探求と似たことになってきました。他者との比較で、自分を一番としているのです。自分が良ければよいのだという、ジコチューな思考です。
ヘブライ語の原典を読みますと、4節以後には「私のために(リー / לִי)」という言葉が繰り返されています。「私のために多くの屋敷を構え、私のために畑にぶどうを植えさせ、私のために庭園や果樹園を数々造らせ」(4~5節)という形においてです。「かつてエルサレムに住んだ者のだれにもまさって、わたしは大いなるものとなり、栄えた」となったのは、自分のためだけに欲望を満たし尽くした、その結果だったのです。そして、9節の最後にもこの「私のために」という言葉が使われています。直訳すると、「私の知恵は私のためにとどまっていた」となります。知恵さえも、自分の欲望を満たすためだけに使っていたということでしょう。このような状態での知恵は、前回の箇所で言われていましたように、「狂気であり愚か」(1:17)にしか過ぎないでしょう。
そしてコヘレトは、「目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ、どのような喜びをも余さず試みた」(10節前半)と言います。「理性を保ちつつ、欲望を満たそう」と始まった「喜び(シムハー / שִׂמְחָה)の探求」であったのですが、「愚かしい欲望によって自分だけが得た喜び(シムハー / שִׂמְחָה)」になってしまったように思えます。
コヘレトは、自己満足に浸りきって「どのような労苦をもわたしの心は喜んだ。それが、労苦からわたしが得た分であった」(10節後半)と言っています。労苦と訳されている言葉は、ヘブライ語で「アーマル(עָמַל)」といい、この言葉もコヘレト書で大変多く使われている言葉です。この言葉の意味合いはとても広く、「労働」「骨折り」「困窮」「危害」といった意味も持ちます。ここでは「骨折り」とするのが良いと思います。欲望を満たすために骨を折ったということです。コヘレトは「欲望を満たすための骨折りを、私の心は喜んだ(シムハー / שִׂמְחָה の動詞形)」と言っているのです。「喜び」が、自分の満足のためのものとなってしまったのです。「理性を保ちつつ、欲望を満たそう」ということで始まった「喜び」の探求が、欲望を満たすことに専心されてしまったようです。
しかしコヘレトはここで理性に立ち返ります。「しかし、わたしは顧みた、この手の業、労苦(骨折り)の結果のひとつひとつを」(11節前半)と言います。「この手の業」とは、喜びを得るために自分がいろいろと求めたことを言っているのでしょう。この手の業と骨折りの結果を見てコヘレトは、「見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない」(11節後半)と言っているのです。これは、コヘレトが失敗したときに使う定型の言葉です。知恵の探求において、「世の知恵」に頼って失敗したコヘレトは、喜びの探求においても、「自分で求めた喜び」で失敗してしまったようです。「喜びについては、それが何になろう」と2節ですでに言っていましたが、そのことをその後の節で説明してきたことになります。
コヘレトはこれらの探求を通して、「学習」をしていると思われます。失敗も人生には不可欠です。失敗の結果、何を見いだすかが大事です。コヘレトも何かを見いだします。コヘレトはいったい何を見いだすのでしょうか。
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