3 太陽の下(もと)、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう。
4 一代過ぎればまた一代が起こり、永遠に耐えるのは大地。
5 日は昇り、日は沈み、あえぎ戻り、また昇る。
6 風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き、風はただ巡りつつ、吹き続ける。
7 川はみな海に注ぐが海は満ちることなく、どの川も、繰り返しその道程を流れる。8 何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず、目は見飽きることなく、耳は聞いても満たされない。
9 かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。10 見よ、これこそ新しい、と言ってみても、それもまた、永遠の昔からあり、この時代の前にもあった。11 昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも、その後の世にはだれも心に留めはしまい。(1:3~11、新共同訳)
今回の箇所も、前回の1章2節と12章8節のように、コヘレト書の終盤の11章7節~12章7節とインクルージオ(囲い込み)を構成していると考えられます。今回「『無限』―太陽の下の循環―」という題と副題を付けさせていただきましたが、11章7節~12章7節も、同じ題と副題が付けられる内容だからです。今まではインクルージオに目を向けて、インクルージオをセットにして書いてきました。しかし今回は、セットで取り扱うことはしません。11章7節~12章7節は、このコラムの終盤において、当該の章・節を扱う際に取り上げます。
さて、今回の箇所は「太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう」と書き出されています。実はコヘレト書は、「太陽の下の出来事」によって書き出されているひとまとまりの文が多いのです。
「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た」(4:1)
「太陽の下に、大きな不幸があるのを見た。富の管理が悪くて持ち主が損をしている」(5:12)
「太陽の下に、次のような不幸があって、人間を大きく支配しているのをわたしは見た」(6:1)
「わたしはこのようなことを見極め、太陽の下に起こるすべてのことを、熱心に考えた」(8:9)
「太陽の下、再びわたしは見た。足の速い者が競争に、強い者が戦いに、必ずしも勝つとは言えない」(9:11)
「太陽の下に、災難なことがあるのを見た」(10:5)
以上は、これらの節を書き出しとする、ひとまとまりの文のその書き出し部分です。これらの文は、コヘレトがこの世界の現実をしっかりと見つめている部分であるように思えます。今回の1章3~11節も、世界における自然や人の営みの現実について書かれている部分であり、それが「太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう」(3節)として書き出されているのです。
4節から7節は、「太陽の下」の自然についての観察がなされています。大地(4節)、太陽(5節)、風(6節)、川(7節)について、それぞれ観察がなされています。この4つが古代ギリシャにおける4元素「火、風、水、地」と一致することから、「コヘレトは古代ギリシャ思想に精通している」とされることもあります。あるいは、この4つの節がそれぞれ、古代ギリシャの格言(ことわざ)であるとする見方もあります。一方で、この4つの節には、「大地における世代の循環」「太陽の循環」「風の循環」「川の循環」が書かれているということもいえます。そしてよく読んでみますと、それらの循環はすべて「無限」であるということです。
コヘレト書を読むときに、この「無限」という概念はとても大切です。私は専門家ではありませんが、「無限」についてはアリストテレス(紀元前384~322)もその概念を書いているようです。紀元前3世紀の人といわれるコヘレトが、アリストテレスを知っていたかどうかは分かりませんが、コヘレトの「無限」の概念には、ギリシャ思想の影響を見ることができるのかもしれません。その意味でも、4~7節に4元素論を見ることができるのは、大変に興味深いことです。
ただし、コヘレト書を読み進めてまいりますと、コヘレトは「無限」と「神の永遠」を峻別していることが分かります。コヘレトにとって「無限」とは、「太陽の下」での「限りのない始めから終わりまで」のことです。しかしコヘレトは、「それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」(3:11)と、人間には知ることのできない、「無限の外側の始めから終わりまで」があることを知っています。コヘレトの無限概念が、ギリシャ思想からのものであるのかどうかは、確かなことは分かりません。ただ、コヘレトにとって「無限」とは、「太陽の下」のものであり、「神の永遠」とは次元が違うものなのです。
コヘレトは、無限を「もの憂い」と言います。「何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず、目は見飽きることなく、耳は聞いても満たされない」(8節)。大地において世代が繰り返されることも、太陽が昇り沈みまた昇ることも、風が巡り巡ることも、川の水が流れ続けることも、「もの憂い」のです。
コヘレトは、「太陽の下」の人の営みも観察します。9節と10節では、「太陽の下」の人の営みに新しいものは何もないと言います。
かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。見よ、これこそ新しい、と言ってみても、それもまた、永遠の昔からあり、この時代の前にもあった。(1:9、10)
新しいと思えることであっても、実はそれは昔からあったのだと言います。コヘレトは、「太陽の下」の人の営みも、無限に繰り返し(循環)がなされているのだと言うのです。そして11節ではさらに、そういった昔からあってこれからまた繰り返し起こることも、いつかは忘れられてしまうと言います。「昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることも、その後の世にはだれも心に留めはしまい」(11節)。太陽の下の人の営みの無限の循環も、時が過ぎれば忘れられてしまう。「それはヘベル(空しさ)なのだ」と言っているように思えます。
コヘレトは、「無限」がすべてだとする世界観に、限界を感じていたのではないかと私は考えています。それで、「もの憂い」「ヘベル(空しい)」と言っているように思えます。しかしコヘレトは、神は「無限」の外側におられる方であることを知っていて、その神とつながっていること、あるいは「神様からのプレゼント」を受け取ることを大事にしていた人なのです。コヘレト書がそこに到達するには、もう少しコヘレトの探求を経なければなりません。そこは少々辛抱していただいて、次回以後はコヘレトのその幾つかの探求を読んでみたいと思います。
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