明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。今回は、私がその著者をオネシモと考えているエフェソ書の6章1~9節を読みます。
6:1 子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。2 「父と母を敬いなさい。」 これは約束を伴う最初の掟(おきて)です。3 「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。4 父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。
5 奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。6 人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、7 人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。8 あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。9 主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。
この箇所は、前回お伝えしました5章21~33節と共に「家庭訓」といわれています。エフェソ書の家庭訓は、コロサイ書3章18節~4章1節のそれに倣っているとされます。今回の箇所は、そのうちの3章20節~4章1節に倣っているとされますので、当該箇所を掲載します。
3:20 子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。21 父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。
22 奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。24 あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。25 不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません。4:1 主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。
十戒からの引用
6章1~4節は、家庭訓の中でも親子訓といわれる親と子に対する訓戒ですが、1~3節は子に対するものです。コロサイ書3章20節に依拠しつつも、そこに十戒の第5戒が加えられています。
モーセの十戒には、旧約聖書の出エジプト記20章による「出エジプト記版」と、申命記5章の「申命記版」があります。十戒の第5戒は、出エジプト記版によるならば、「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」ですが、申命記版によるならば、「あなたの父母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る」です。申命記版には「幸いを得る」という言葉があるのです。
エフェソ書6章3節には、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」とありますから、申命記版からの引用ということになります。2節と3節によるならば、この掟は約束を伴ったものです。約束をより明確化するために、「幸いを得る」がある申命記版から引用しているのではないでしょうか。
4節は親に対する訓戒ですが、コロサイ書の「いじけるといけないからです」が、「主がしつけ諭されるように、育てなさい」と、教会においての表現に変えられています。
元奴隷による記述
3章22節~4章1節は、奴隷とその主人に対する訓戒です。この部分は注解書などを見ましても、解説が短いものが多いといわれます。しかし私は、ある観点からこの箇所に対して大きな関心を持っています。それは、私がエフェソ書の著者と考えているオネシモが「元奴隷」であるという点です。つまり、奴隷を実際に経験した者の視点で、「奴隷も自由人もキリストにあって一つである」という観点から奴隷訓を書いているということです。コロサイ書の奴隷訓と比較した場合、奴隷からの視点がより明確になっているのではないかと考えています。
コロサイ書では冒頭で、「奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい」と、主人に従うという言葉で切り出されていましたが、エフェソ書では「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい」と、キリストに従うことが求められた後に、主人に従うことが求められています。
さらに6節以下では、「キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい」と、肉の奴隷ではなくキリストの奴隷としての在り方が奨められています。
また8節には、「あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです」とあります。「善いこと」という単語は、本コラムでしばしば取り上げている「アガソス / ἀγαθός」です。教会の信徒に求められることです。これは、ガラテヤ書3章26~28節の「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」を受けているのだと思われますが、制度上は身分差があっても、キリストにある信仰においては区分がないということが明確にされています。その点がコロサイ書よりも一歩踏込んだ記述になっていると思います。
9節は主人に対する訓戒になっています。「天の主は人を分け隔てしない」という意味のことが、奴隷に対してだけではなく、主人に対しても言われています。この点がコロサイ書よりもさらに踏み込んでいると思います。
以上見てきましたように、エフェソ書の奴隷訓は、奴隷と自由人を平等視している要素が強いと思います。このあたりが「元奴隷オネシモ」による筆記の特徴なのではないかと、私は考えているのです。
奴隷訓は過去の遺物か
今日の地球上には、奴隷制度は見られません。そのため奴隷と主人に対する訓戒は、過去の遺物とされてしまいそうではあります。しかし、他者を奴隷的に扱う隷属化はどこにでも起こり得ます。特に、信徒が牧師に隷属するという「教会のカルト化」ということが、昨今盛んにいわれています。そういった観点からも、エフェソ書6章5~9節は今日においてもしっかり読まれるべき箇所であると思います。(続く)
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