宗教は争いをもたらす、ない方がよい、信じない方がよい。
まず、個人レベルの問題を一般的に述べますと、他の宗教はいざ知らず、キリスト教を信じる者に、格別に争いが多いとは思っていません。なぜなら、新約聖書は次のように平和な対人関係を結ぶよう教えているからです。
「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」(ローマ12:18)
「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人がよいと思うことを図りなさい」(同12:17)
「自分で復讐してはいけません」(同12:19)
「主のしもべが争ってはいけません」(Ⅱテモテ2:24)
「だれをもそしらず、争わず、柔和で、すべての人に優しい態度を示す者とならせなさい」(テトス3:2)
ですからキリスト者は、非難されても、攻撃されても、嘲弄(ちょうろう)されても、耐え、激しないよう、争いにならないように努めています。
日本には『和して同ぜず』という言葉があります。キリストの神を信じる者はその心構えでいます。主義、主張の違う風習、しきたり、取り決めに同じることができない場合もあります。しかし、それゆえに激したり、争ったりはしないように心がけています。あくまで、平和的に話し合うよう努めています。
日本では、往々にして違いを認めず、同じように考え、同じように動くことを強制しがちですが、信仰の立場上どうしても同調できない場合のあることを認めていただきたいのです。
宗教団体同士の争いについてですが、信教の自由が保障され、政教分離がなされている国においては、論争はあっても争いはありません。アメリカ合衆国には実に多様な宗教が共存していますが、問題はすべて裁判で決着しています。しかし、国や地域や民族の中で身分上の差別や経済的格差がはなはだしいとき、あるいは歴史的な紛争があるときは、何らかの混乱をきっかけに宗教紛争へ発展することがあります。北アイルランドの紛争は本来、宗教問題というよりは長い間の民族的対立や経済格差に根本的原因があるようです。いずれにせよ、早期の平和的解決を目指しています。
ときには宗教が憎しみやテロを煽(あお)ったり、暴力を唆(そそのか)したり、ジハード(聖戦)を奨励したりすることがあります。そのような宗教には近寄らないのが無難といえましょう。それらこそ、宗教紛争の火種ですから。国においても、宗教団体においても、暴力や軍事行動は慎まなければなりません。それは、広く、社会・人類の知恵の問題ではないでしょうか。
■ なにゆえキリストの道なのか: (1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)
(11)(12)(13)
◇
正木弥(まさき・や)
1943年生まれ。香川県高松市出身。京都大学卒。17歳で信仰、40歳で召命を受け、48歳で公務員を辞め、単立恵みの森キリスト教会牧師となる。現在、アイオーンキリスト教会を開拓中。著書に『ザグロスの高原を行く』『創造論と進化論 〜覚え書〜 古い地球説から』『仏教に魂を託せるか』『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』(ビブリア書房)など。
【正木弥著書】
『なにゆえキリストの道なのか 〜ぶしつけな240の質問に答える〜 増補版』
『仏教に魂を託せるか 〜その全体像から見た問題点〜 改訂版』
『ザグロスの高原を行く イザヤによるクル王の遺産』(イーグレープ)