宗教について③
宗教の源は、よりどころを求める“人の心”にある。宗教は、人間の安心のために人間がうまく考え出したものではないのか。
確かにそのような宗教が多いですね。右の図のうち、Aの型です。人間が求めるのですから、人間に向いた真理を探り出すのは当然です。すると、そのような宗教は、人間が考え出したかのように見えても不思議ではありません。それは、人間が自分の心の内を見つめ、人間集団の生活や歴史を考察して探り出した真理だともいえるでしょう。あるいは、先人の知恵、その集積である、ともいえるでしょう。それがある面で人間の人生のよりどころになることがあるのも事実です。しかし、人間なるが故の限界もあります。その真理は人間世界の真理にとどまるのです。
一方、聖書に基づく神信仰の真理は、これとは違います。それは人間の探求やその努力によって得たものではなく、図のBのとおり、神がご自分の持っておられる真理を人間に啓(ひら)き示してくださったものです。その真理はまさしく神の真理であって、人間が知らなかったものですから、人間から見れば大変奇(くす)しいものです。それを神は恵み(恩恵)として開示してくれたのです。努力の結果ではなく、恵みとして与えてくれたのですから、人間はそれを受け止めればいいのです。
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです」(Ⅰコリント2:9、10)
聖書の神は実に奇(くす)しいこと、不思議なこと、人間が考え出せないことをされ、示し、主張しています。
例えば、ノアの大洪水と箱舟、ソドムとゴモラの裁き、モーセの生い立ちとエジプト脱出、荒野の40年の旅、バビロン捕囚と解放、イエスの十字架の受難による救いと復活、再臨と最後の審判、天の御国と永遠のいのち・・・これらはほんの主なものだけですが、人間が決して思いつくことではありません。しかも、これらのほとんどはすでに実現しています。人間の頭脳が創作したフィクションではありません。これらを認め・信じる者に、“神への畏れ”、他方で“神に信頼する心”が与えられ、愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制・感謝の心が与えられます。人生の目的・行き先・生きる基準が示されます。希望と力が起こされます。
求める心から生じる教えではなく、創り出した話ではなく、事実がまずあって、そこから神が明らかにされた教えなのです。この違いをよく知ってください。
■ なにゆえキリストの道なのか: (1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)
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正木弥(まさき・や)
1943年生まれ。香川県高松市出身。京都大学卒。17歳で信仰、40歳で召命を受け、48歳で公務員を辞め、単立恵みの森キリスト教会牧師となる。現在、アイオーンキリスト教会を開拓中。著書に『ザグロスの高原を行く』『創造論と進化論 〜覚え書〜 古い地球説から』『仏教に魂を託せるか』『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』(ビブリア書房)など。
【正木弥著書】
『なにゆえキリストの道なのか 〜ぶしつけな240の質問に答える〜 増補版』
『仏教に魂を託せるか 〜その全体像から見た問題点〜 改訂版』
『ザグロスの高原を行く イザヤによるクル王の遺産』(イーグレープ)