前回の続きです。「人が無価値と思うものを、多くの人々の益のために用いる神」について、「5つのパンと2匹の魚の物語」(マタイ14:13~21)から続いて学びます。
人が役に立たないと思うものを祝福する神
「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(ヨハネ6:9、新共同訳)
「イエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った」(マタイ14:19)
お腹を空かせた約1万人もの大群衆を前にして、5つのパンと2匹の魚では何の役にも立たないと思った弟子たちでした。けれどもイエスは、父なる神に、このパンと魚が祝福されることを祈り求めました。弟子たちには、「神の祝福」というものは眼中にまったく無かったようです。
私たちも、ビジネスや色々な取り組みの現場で、これまで「神の祝福」は意識していたでしょうか。
現実主義から目覚めるために
イエスは「神の祝福」を、大群衆と弟子たちのど真ん中に持ち込みました。それは、弟子たちが目に見えるものにとらわれた現実主義の中でのみ生き、神の恵みが存在することを見失っていたからでした。
イスラエルの民は、出エジプト後のシナイの荒野で、天から届けられたマナでおよそ40年間養われた民族です。そして、神の民を養うのは神自身であることを体験的に教え伝えていました(出エジプト記16章)。
イエスは「神の祝福」がイスラエルと共にあることをもう一度思い起こさせるために、あえて皆が見ている前で「天を見上げて、それらを祝福し」たのです。「群衆に命じて草の上にすわらせ」たのは、群衆たちにも「神の祝福」がよく見えるように、ビジュアルで教えるためだったと思われます。
今も続く「神の祝福」
やがてこの出来事は、弟子のマタイによって福音書に記されました。それは、「神の祝福」を現代の私たちにも伝えようとされる神のご意志があったからです。
「神の祝福」はもともと、神がアブラハムに注がれたものでした。
「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる」(創世記12:2)
けれども、それはアブラハムやイスラエル民族だけではなく、すべての民族に及ぶことが約束されました。
「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」(創世記12:3)
だから今日、私たちも神の祝福にあずかることができるのです。私たちも、目に見えるものにとらわれてばかりいないで、「天の神の祝福」があることを、生活の中に、職場の中で、学校の中で、身近な所で、もっと意識してよいのではないでしょうか。
私たちが見下げていたものに、もう一度目を向け直し、「神の祝福」を願い求める祈りを始めてはいかがでしょうか。私たちの身近な職場や学校、家庭や地域。そこがたとえどんなに荒れていても、魅力に欠けていても、冷たくても、「父なる神よ、祝福してください」と、私たちも祈りをささげることができます。
新約聖書には、次の言葉があります。
「あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6:28)
「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません」(ローマ12:14)
「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです」(Ⅰペテロ3:9)
イエスが祝福の祈りをささげた後、「神の祝福」によって想像を超えた展開へと続いていきます。
(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)(13)(14)
(15)(16)(17)(18)(19)
◇
森正行(もり・まさゆき)
1961年兵庫県西宮市出身。建設専門学校卒。不動産会社、構造建築事務所にて土木・建築構造設計部門を5年間勤務。1985年受洗。関西聖書神学校卒。岡山・岡南教会にて伝道師・副牧師3年間奉仕。1995年より現在、日本イエス・キリスト教団宮崎希望教会牧師。