「私たち人間の能力ではできない仕事を、あえてさせてくださる神」というテーマは、聖書に目を向けるとき、そこに数多くの実例があります。それはどのようなものか、次に新約聖書から見て参りましょう。
② 新約聖書の時代
ペテロたちのケース (ルカの福音書22章、マタイの福音書4章)
イエス・キリストの弟子として選ばれたペテロや他の弟子たちは、「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」と言いました。しかしその夜、キリストが人々を愛するために自らの命を犠牲にしていく時、ペテロや他の弟子たちは恐ろしくなり、逃げてしまいました。さらにペテロはキリストを「私は(キリストを)知らない」と3度否定し、裏切りました。
ところがキリストは、かつてペテロに「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」と言われていました。
恐れて自分の身を守るために嘘をつき、逃げ出すことしかできなかったペテロたちを、やがて、神以外の何者も恐れない伝道者・教会の監督者とならせました。
ヨハネのケース (マルコの福音書3章)
キリストの十二弟子の一人ヨハネは、キリストから「ボアネルゲ」すなわち「雷の子」と呼ばれました。それはおそらく、性格が短気で、すぐに怒りを爆発させてしまうことが度々あったから付けられたあだ名になったのでしょう。しかし、そんなヨハネを神様は選びました。
神様はヨハネに神の愛を深く理解させ、新約聖書に名を連ねる、ヨハネの福音書、ヨハネの手紙、ヨハネの黙示録を彼に書かせ、神の愛の広さ深さを書き記させました。
五つのパンと二匹の魚のケース (マタイの福音書14章)
多くの群集(成人男性だけでも5千人と記されているので、女性と子どもを含めると1万人は超えていたのでしょう)がイエス・キリストの行く所へついて行き、やがて日も暮れていこうとした時です。
「夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。『ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。』しかし、イエスは言われた。『彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。』しかし、弟子たちはイエスに言った。『ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません』」
弟子たちは、目の前の現実を見て、イエス・キリストが言われたことは不可能だと思いました。しかし、この後、「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」という言葉が実現したのです。
「そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった」
人間的に、また合理的に考えるならば、弟子たちの考え方は正しい判断であったことでしょう。5つのパンと2匹の魚は、多くの空腹な人たちには何の役にも立たないと思われましたし、弟子たちは群衆を解散させることしか協力できませんでした。
けれども、イエス・キリストは、そのパンと魚を受け取り、父なる神にこれらのものが祝福されることを祈りました。そして、そのパンを割いていくと、不思議なことに、パンは減ることなく、どんどん増え続け、弟子たちはその増え続けたパンを空腹な人々に配ることに大忙しになりました。
収税人ザアカイのケース (ルカの福音書18、19章)
まじめで裕福な家庭にいたある役人は、イエス・キリストから「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」と言われました。
「すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。イエスは彼を見てこう言われた。『裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。』これを聞いた人々が言った。『それでは、だれが救われることができるでしょう。』イエスは言われた。『人にはできないことが、神にはできるのです』」
ところがこの出来事の後、「人にはできないことが、神にはできるのです」という言葉を神様は実現されていくのです。
エリコの町にいたザアカイは、人々から税金を徴収する取税人のリーダーで、必要以上に金銭を取り上げていました。人々は金銭に強欲なザアカイを嫌い、罪人扱いするほどでした。ザアカイは人々から嫌われてでもその行為を改めようとはしなかったのですから、もはや人の言葉もザアカイの内にある良心の声さえも、彼の心を変えることはできなかったようです。自他共に、更生不可能と思われた人でした。
しかし、そんなザアカイにイエス・キリストは「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と声をかけられ、彼と一晩、寝食を共にすると、ザアカイは誰も真似ができないようなことを自発的に語りだしました。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」。これは自分の財産のほとんどを失うような宣言です。この言葉をザアカイは実践していったのでしょう。
役人もザアカイも金持ちでした。まじめな役人は全財産を人々へ施すことを自分の力でしようとして、できなかったのです。しかし、神様は金銭に強欲であったザアカイでさえ、貧しい人、迷惑をかけた人に心を配る隣人愛の人に変えてしまったのです。
パウロ(サウロ)のケース (使徒の働き7章)
ユダヤ人の律法学者サウロは、生まれたばかりのキリスト教会を嫌い、当時のクリスチャンを最も厳しく迫害し、信仰と愛に満ちたクリスチャンのステパノを殺害することに賛成し加担していました。
「ステパノは主を呼んで、こう言った。『主イエスよ。私の霊をお受けください。』そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。『主よ。この罪を彼らに負わせないでください』」
サウロは、それで心を動かされる人物ではありませんでした。また、キリスト教会もサウロを非常に恐れていました。にもかかわらず、神様はこの後、サウロをパウロと呼び、初代教会の、そして、今日の全世界の教会の礎を築くための重要な人物として用いられたのです。
この他にも、新約聖書に目を向けると、初代教会の時代、私たち人間の能力ではできないことを、神様は人を用いて、あえてさせてくださったことが記されています。
これらの新約聖書の物語は、架空のもの、フィクションではありません。また、物語が列記されているのは、神の言葉が実現性を帯びているものの証拠として、神の言葉が単なる思想には留まらない行動性を有したものであることを、私たちに伝えるために神が記録させたものでした。
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森正行(もり・まさゆき)
1961年兵庫県西宮市出身。建設専門学校卒。不動産会社、構造建築事務所にて土木・建築構造設計部門を5年間勤務。1985年受洗。関西聖書神学校卒。岡山・岡南教会にて伝道師・副牧師3年間奉仕。1995年より現在、日本イエス・キリスト教団宮崎希望教会牧師。