「私たち人間の能力ではできない仕事を、あえてさせてくださる神」というテーマは、近代においても継続されてきました。その実例をいくつか見てまいりましょう。
前回に続き、日本の福祉事業のパイオニアとなった石井十次です。養う子どもの数が増え、経済的にも苦境であったころの出来事を見ていきます。
石井十次のケース(その2)
預かった子どもたちが40名ほどになったころのある日、十次は鐘をならして、子どもたち全員を集めた。
「みなさんに集まってもらったのは、私がみなさんに謝らねばならないことができたからです。それは、お米や麦が少なくなってしまい、今晩はおかゆにしなければならなくなって、本当にすまないが、それで我慢してください。この通りです」
しかし、十次は話を続けた。「『神様はきっと与えてくださる』という信仰があれば、神様は与えてくださるに違いありません。今おかゆの支度ができていますから、それを食べたら、私と一緒に心を合わせてお祈りしてください」
十次は人づてに「必ずお恵みがあります。手を挙げて待っていなさい」と言われ、食事が終わると子どもたちと一緒に、熱心に祈った。そして、祈り会が終わった時だった。「十次院長、お祈り中に、アメリカの婦人が見えて、アメリカの少年会から送ってきたと言って31円の寄付金を持ってきてくださいました」と知らせが届いた(米10キロが50銭前後の時代でした)。十次は、神様に感謝の祈りをささげた。
明治38年晩秋、東北の岩手、宮城、福島の3県で大凶作が起こった。食べるものがないので売られていく子ども、捨てられる子が続出し、人々の心を痛めた。十次は翌年1月、3県に出かけ状況を目の当たりに知り、心を痛めた。「食べるものもなく、寒さにふるえている。この子たちを温かく迎えねば」。そして2月、救済事務所を開設し、職員を残し、受け入れ準備のために岡山に帰った。
そのころ、東北地方は60年ぶりの大雪に見舞われ、さらに困難となったが、岡山孤児院のほか、大阪養老院、大阪博愛社、救世軍、仙台キリスト教保育院が救済の仕事に加わった。岡山孤児院には、3月に242名、4月には120名の孤児たちが到着し受け入れた。2日後、十次は腸チフスにかかって入院した。その後も、67名、72名を受け入れ、さらに約250名が送られる知らせを十次は病床で聞いた。
「もう満員だ。受け入れるのは無理だ」と思った。しかし3県には「無制限収容」と知らせている。どうしよう。ひもじさと寒さに耐えている子どもたちが、救いを待っている。自分の力なさが情けなくなった。
「神様、お力をください」。十次は、高熱をおして床の上に座り、祈り始めた。その時、不思議な幻を見た。キリストが輝くような白い布で体を包み、大きなかごを背負って現れた。そこで十次がそのかごをのぞいてみると、そこには何百という子どもがいっぱい入っていた。そして、その後ろには20人ばかりの大人がいて、かごの外にいる300人ほどの子どもを次々に抱いてかごの中に押し込んでいた。それで十次は、もう入らないから入れてはいけないと止めるのだが、とうとう子どもたちは全部入ってしまった。そうすると、キリストは後ろを振り返り、「もうすんだのか?」という様子で静かに立ち去った。そして、幻が消えた。同時に熱は下がり、幻のわけを悟った。そして職員を呼び指示を出した。
「大急ぎで宿舎を一棟建て、近所の空家を2軒と周りの土地を買い入れてください。土地は野菜畑にしてください。それに、栄養不足で病気の子も多いだろうから、県立病院からお医者さん6人、看護婦さん6人、付添い人も6人お願いし、病室も増やしてください」。「すぐやります」と言って職員が帰ると、会計担当者が来た。
「院長、ただいま、英国、米国、それに日本の方たちから1万6千円を超える寄付金がありました」。そう聞くと、十次は「本当に、幻の通りだ」と思った。その後さらに宮内省からも100円の御下賜金(ごかしきん)が届いた。
5月に272名が到着し、3県の子どもは824名となり、院の子どもは合計1200名となった。すべての受け入れが終わったとき、仙台の外人救済会から2万4500円の寄付金が送られた。
石井十次は、財力がなくても、神様の御心に従って隣人を愛するならば、神様は必要なものは必ず与えてくださると信じ続けた。
参考文献
○ 原利治著『信仰偉人伝 石井十次』(日本教会新報社)
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森正行(もり・まさゆき)
1961年兵庫県西宮市出身。建設専門学校卒。不動産会社、構造建築事務所にて土木・建築構造設計部門を5年間勤務。1985年受洗。関西聖書神学校卒。岡山・岡南教会にて伝道師・副牧師3年間奉仕。1995年より現在、日本イエス・キリスト教団宮崎希望教会牧師。