(1)聖書=神の言葉
旧約聖書のイザヤ書は、今から約2700年前にイザヤという名の預言者によって記された預言書です。そのイザヤ書55章8~11節には次のように記されています。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」
ここに「わたし」「主」と書かれているのは神様自身のことです。そして「あなたがた」と書かれているのは、私たち人間のことです。
上記の聖書の言葉は、「主の御告げ」と記されているとおり、人間に対する神様の言葉であり、語り掛けている文体は、神様から私たち人間に対する〝メッセージ〟となっているのです。
子どもが母親の声を聞くように、私たち人間が自分の耳で神様の声を直接聞くようなことは、無いとは言えませんが、あまりありません。また、誰もが「神の言葉が聞こえる」というようなことでは、その真偽の判別は難しく、かえって混乱を招いてしまいます。
そこで神様は、私たち人間が、神様のことや神様の思い・考えを知るために、変わることのない聖書の言葉を用意されたのです。儒教の孔子や老子の言葉、仏陀の経典、哲学書、これらは人が悟った言葉と言えるのではないでしょうか。しかし、イザヤ書55章8~11節に記されているような聖書の言葉は、人間に対する神様からのメッセージ集なのです。
神様のメッセージを文字にして書いたのは、イザヤというユダヤ人の預言者でしたが、イザヤは自分が悟ったところを書いたのではなく、神様との祈りの中で、神様がイザヤに示されたことを書き記しました。
したがって、私たちが今、聖書の言葉に目を向け、耳を傾けているということは、神様の声に耳を傾ける姿勢につながるのです。そして、聖書の言葉に目を向け続けていくと、そこに記された言葉の真意に目が開かれていくようになり、私たちの一度限りの人生にも真の大いなる神様が深く関わってくださるようになるのです。
祈り
「私たちの天の父よ、御名をあがめます。神様、私たちは今、神様が私たちに対して聖書の言葉を通してメッセージを語られておられることを知りました。神様が私たちに対して、どのようなメッセージを送って下さっているのか私は知りません。私に教えてください。私によくわかるように理解させてください。この願いをイエス・キリストの名によってお祈りします。アーメン」
(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)(13)(14)
(15)(16)(17)(18)(19)
◇
森正行(もり・まさゆき)
1961年兵庫県西宮市出身。建設専門学校卒。不動産会社、構造建築事務所にて土木・建築構造設計部門を5年間勤務。1985年受洗。関西聖書神学校卒。岡山・岡南教会にて伝道師・副牧師3年間奉仕。1995年より現在、日本イエス・キリスト教団宮崎希望教会牧師。