前回の続きです。「人が無価値と思うものを、多くの人々の益のために用いる神」について、「5つのパンと2匹の魚の物語」(マタイ14:13~21)から続いて学びます。
役に立たないと思うものを「持って来なさい」と言われる神
「弟子たちはイエスに言った。『ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。』すると、イエスは言われた。『それを、ここに持って来なさい』」(17、18)
弟子たちが役に立つとは思わなかったものを、イエスは「持って来なさい」と言われました。
私たちは問い直してみる必要があるのではないだろうか
私たちは、日常生活や職場、学校において、自分や周囲の人たちが「役に立たないと思う」ものと、これまでどう向き合ってきたでしょうか。
ほぼ無意識のうちに、それらのものに無関心になってしまっていたのではないでしょうか。あるいは、役に立たないことに何度も失望し、落胆を経験してきたのではないでしょうか。
それは過去の“苦い経験”“つらかった出来事”として、ただ記憶しているだけになってしまっているかもしれません。あるいは今現在、“苦い経験”や“つらい出来事”の真っ只中にいるのかもしれません。また、あなたの友人や親、兄弟、子どもが“苦い経験”や“つらい出来事”を、今、あるいは過去に苦しんでいるかもしれません。
これらの多くのことは、私たちの知恵や能力ではどうしていいのか分からないまま、手がつけられないまま、半ばゴミ箱に捨ててしまったような状態になっています。
持って行けるもの
けれども、人が役に立たないと思うものを、多くの人々の益のために用いる神のもとでは、私たちの“苦い経験”“つらい出来事”を、新たに、イエスのところに「持って行く」ことができます。
イエスのところへ持って行けるものは、どんなものでしょう。
それは、自分ではどうしていいのか分からない問題、自分の能力では達成できない仕事、心の傷となってしまった過去の出来事や記憶、事件や失敗、人に迷惑をかけてしまったこと、自信を失った自分自身、悩みの中にある友人、負担になってしまった物、置かれている環境、こじれてしまった人間関係などです。
持っていく手段
どのように持って行けばよいのでしょう。それは“祈り”です。
「神様(イエス様)、私は今(あるいは“過去に”)、○○○で苦しんでいます。どうしていいのか、自分では分かりません。けれどもあなたは“それを、ここに持って来なさい”と、今も言われていることを知りました。今、あなたの前に持って来ました。人々の役に立つために用いてください。あなたにささげます」
一例として挙げましたが、そう祈られることをお勧めいたします。イエスは、あなたが祈りの中で“持ってきたもの”を受け取ってくださるからです。
私は、過去の自分の苦い経験と、未解決のままである問題、そのようなものを抱えたままの小心な自分を、神に祈ってイエスの前に持って行きました。私の友人は、もはや取り返しのつかない事件と、その罪を犯した自分を、祈りの中で神の前に持って行きました。親しい婦人は、自分が恐れていることを、祈りの中で神の前に持って行きました。
イエスのところへ持って行ったこれらのものは、やがて、私たちが想像もしなかった感動の出来事に発展し、また人々の役に立つものになっていきました。神が、私たちの祈りを聞かれ、応えてくださった結果でした(これらの出来事は、後日またお伝えいたします)。
祈る場所は、あなたの家で、あなたの学校で、あなたの職場で、あなたの立っている所でできます。イエスは今も「それを、ここに持って来なさい」と、どんな人にも語り掛けているのです。そして、こうも言われます。
「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」(マルコ11:24)
次回は、「役に立たないと思うものを受け取り“祝福する”神」です。
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森正行(もり・まさゆき)
1961年兵庫県西宮市出身。建設専門学校卒。不動産会社、構造建築事務所にて土木・建築構造設計部門を5年間勤務。1985年受洗。関西聖書神学校卒。岡山・岡南教会にて伝道師・副牧師3年間奉仕。1995年より現在、日本イエス・キリスト教団宮崎希望教会牧師。