千野敏子(ちの・としこ、1924~1946)と三浦綾子(1922~1999)は、ともに太平洋戦争下の18歳から国民学校(小学校)教師をしていた。
千野は、軍国主義一色だった17歳の女学生時代から亡くなる22歳の間に、日々の思索や詩を「真実ノート」4冊に書き続けた。友情とは、家族とは等々の身近なテーマだけでなく、下記のように戦時下の世相や世界情勢などにも言及した。多読によって鍛えられた鋭い視点は、いわゆる文学少女の域を超えている。
「私は戦争をあさましく思う世の反逆者である。実際私はこんな穏健でない自分の思想をどうすればよいのかと思うのである」
「国民は・・・すべて思慮の浅いお人よしでうぬぼれで・・・戦いの苦悩というものを真剣に考える者さえいない」
「とにかく文学といわず、今日本中の芸術が大スランプに陥っているのだ。後世の人は暗黒時代というであろう。暗黒時代に生きている自分が哀れな気がする。このスランプから根本的に脱するには、現代のすべての人間が、その心の奥の自己欺瞞(ぎまん)を捨てなければならない」
「戦争後1か月、すでに私は自由主義、民主主義の文字に飽き飽きした」(1945年9月)
昨日まで軍国主義を礼賛していた人々が、手のひらを返すように突然民主主義を唱えだす姿に唖然(あぜん)としたからだろう。
戦争末期、厳しさを増す食糧難の中で、闇(非合法)で食糧を買うことは半ば黙認されていた。しかし千野は「同一条件下の耐乏生活は皆が忍ぶのが公正なルールというものではないか」と記し、闇買いを拒み続けた。1946年5月、彼女は栄養失調のため教壇で卒倒し、そのまま入院。腸閉塞で8月に亡くなった。
翌47年、千野が残した「真実ノート」4冊は、女学校時代の恩師の手によって『葦折れぬ―1女学生の手記』として出版された。この書名はパスカルの言葉「人間は・・・考える葦である」にちなんだもの。
1女学生があの戦時体制に黙々と抵抗し、ひたすら真実を追求した記録は、発売直後から世間に驚嘆のまなざしで迎えられた。治安維持法によって獄中死した哲学者・三木清の『哲学ノート』『人生論ノート』がベストセラーの上位を占める時代だった。以後出された増補版はたちまち十数版を重ね、新書版、抄録版も含めて3つの出版社から73年まで出版された。未信者時代の私はそのうちの3冊を購入。千野は私の憧れの少女であり、この本は私の“青春の書”だった。
再版が出された翌48年、全国の読者による寄付金をもとに、千野が最も愛した土地・長野県富士見高原に記念碑を建立。彼女の言葉から抜粋した碑文には、「真実は悲しきかな。それはついに反逆視され」とある。
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三浦綾子は、戦時中の7年間、何の疑問も持たずに軍国主義教育に尽くし、教え子たちを侵略戦争へと送り出していった。しかし1946年、その罪悪感に苦しみ退職した。自伝小説『道ありき』をもとにその後の歩みをたどってみよう。
「過ちとは手をついて謝らなければならないものなのだ。いや、場合によっては、敗戦後も生徒の前に死んで詫びなければならないのではないか」
自分は無知ゆえに、戦争の被害者であると同時に加害者となってしまった。その債務証書を突き付けられた時点で、もはや何も自己正当化する余地はない。降参して自己破産を認めざるを得ないような事態である。
「23歳の年まで信じてきたものが、何もかも崩れ去った敗戦の日以来、わたしは信じることが恐ろしくなってしまった」
「この世のすべてが空しく思われた。・・・何もかも馬鹿らしくなってしまうのだ。・・・自分の存在すら肯定できないのだ」
虚無的な自堕落な生活に陥り、自殺も図り未遂に終わる。しかし前川正との出会いが彼女を生き返らせた。キリストの愛は、罪人のために死んでくださるほどに烈(はげ)しく深い。その愛のエネルギーがクリスチャン・前川正を通して三浦を動かし始める。人間不信と虚無感とで固まっていた彼女の心は打ち砕かれ、新たな光を見出していく。
パスカルの「人間は・・・考える葦である」という言葉の後には、人間はこの宇宙よりはるかに尊い、人間は自分が弱いものであることを知っているから、という意味の言葉が続く。三浦は誇るものを全て失い、弱さを認めて自分を明け渡した。そのような悔い砕かれた心に、神の力は働いてくださるのだろう。
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今年1月、私は町の図書館の「不用図書交換コーナー」で、たまたま『葦折れぬ』1947年発行の再版本を見つけた。持ち主が高齢で亡くなるなどで、家族が図書館に持ち込んだのだろうか。それにしても私のかつての“青春の書”、それも私が持っていない再版本と出会えるとは。粗悪な仙花紙で、煮しめたような茶色に変色したページを、破れないようにこわごわ開いた。
そこで、千野と三浦が戦時下で小学校教師だったという共通点に初めて気が付いた。
ところが千野は三浦と違って、自分が軍国主義教育を担った責任に対して、反省らしき言葉を「真実ノート」に一言も書いてない。「私の生涯は、ただ真実を求めるための前進だ」という彼女にしては、これは何とも不可解ではないか。
千野の親友M子さんは『葦折れぬ』のあとがきで、そんな千野の矛盾について次のように喝破する。
「敏子さんとても、当時の教育の支配から超越して生きていたのではなかったから、あの侵略戦争を客観的、世界史的立場から見たり憎悪したり反対したのではない。真珠湾攻撃に興奮したり、日本が戦況不利と知って悔しがったりした。戦争に反対しながら、一方で協力することに何の矛盾も感じもせずに生きてきたことに対しては、全く悪夢のように感じざるを得ない。敏子さんを皮相的に見て過大評価するのは慎まねばならない。それは彼女が最も嫌うことである」
「現在の世の中のありとあらゆるもの何一つとして信頼できるものはない。しかし、私は決して昏迷しない。結局は真実が真実なのだ。真実は真実なのだ。真実以外に何物もない」(1946年)
この千野の言葉についてM子さんは、「敏子さんが『真実ノート』で求めた真実は、観念的、主観的、偶像的な域を一歩も出ていない。『真実』を神のごとき存在として、手の届かないところに置いてしまったのだと思う」と記す。
確かに、真実という言葉自体で空回りしている感がする。自分の知性を神として、「真実」という観念で武装して時代に心を閉ざす以外に自分を守るすべがなかった? それが実際には軍国主義教育に協力していた自分の実像に、戦後になっても気付かなかった原因だろうか。一方で、そんなプライドが、歯を食いしばって違法な闇の食糧購入を拒み続ける力となったのかもしれない。しかし飢餓は、最後の砦だったそのような誇りを打ち砕いてしまう。
「空腹と疲労という2つの現実が現在の私のすべてを覆い尽くしている。思索、理想、感傷などあらゆるものは、この2つの威力に圧倒されて、遠い昔の夢としか思えなくなった」
千野は4人きょうだいだが、すでに2人亡くなり弟も戦時中に急逝し、彼女一人が残された。老親のためにもどうあっても生きなければならない。「しかし急に明確に『生きねばならない目的』が眼前に浮かび上がった半面、一方では全く『生きる目的』を失ってしまった気がする」と書く。それが「真実ノート」の絶筆となった。
それまでの観念的な理想には自分の現実を支える力はないこと、それに代わる本当の「生きる目的」を、実は持っていなかったことを、ここに至って思い知らされたといえようか。“考える葦”千野敏子は、折れ伏していくしかなかった――。
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「人間が中心の思想に、わたしは何の感動もなかった。あの、忘れられない敗戦の、苦い体験が、私に人間というものの愚かさ、頼りなさをいやというほど教えてくれた。・・・生きるために一番大事なものを人間の目は見ることができないような気さえした」(『道ありき』より)
前川正を通して心の目が開かれた三浦は、今度こそ「生きるために一番大事なもの」を見出したのだった。千野と三浦。2人の戦後を決定的に二分したのはこの一点だった。
もし千野が戦後生きながらえて、前川正のようなクリスチャンに出会っていたのだったら・・・。(敬称略)
「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです』」(ヨハネ14:6)
■ みちくさ通信: (1)(2)
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