医師・鎌田實(1948~)は、国内外でさまざまな医療奉仕活動を続けてきた。チェルノブイリ原発被曝患者の治療、イラク難民キャンプでの診療活動、ベラルーシの放射能汚染地帯への医師団派遣など・・・。NHK放送文化賞など多くの受賞歴を持ち、諏訪中央病院名誉院長ほか幾つもの肩書を持つ。
彼は医学生のころ、発生学の教授から、人間の胎児は母親の胎内で38億年という生物の歴史を背負って生まれてくるのだと教えられた。この時、現実の向こうにある見えないいのちの本当の姿を見ることの大切さを知ったという。「そのいのちにまじめに丁寧に向かいあいたいという気持ちが強まり、それが医師としての起点となった」と語る。
発生学は、いのちが無限の彼方から来るところまでは解明したようなのだが、そのいのちはどこに向かっていくのかまでは考えが及ばないのだろうか。
ともかく鎌田のエピソードが言外に語っているのは、目に見えないいのちの流れである。見える形で地上に現われ出たいのちは、地上を去っていのちの大河に合流して、見えない永遠の世界へと去っていく・・・。
「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(Ⅱコリント4:18)
鎌田はクリスチャンではないようだが、彼のように、人が造り出すことのできないいのちに畏敬の念を抱き、その神秘を極めようとする人には、神様はご自分のわざを教えてくださるように思う。
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話は変わるが、終戦間もない頃、私の郷里で、あるクリスチャンホームの女子高生が亡くなった。彼女は遠足に行くために、混雑した貨車に乗らなければならなかった。客車がとにかく足りなかった時代である。しかし、途中から次々と乗り込んでくる乗客にもみくちゃにされ、車内の壁際に押し付けられたまま窒息死してしまった。
作家・壷井栄(1899-1967)は、この事件をもとに『あたたかい右の手』という短編童話を書いた。作中で、亡くなった女子高生は「慈雨(じう)ちゃん」として登場する。大きな黒い瞳に漆黒の髪を持ち、成績はクラスで1番だ。誤解されても弁解せず、右の頬(ほほ)を打たれたら左の頬を差し出すような少女で、両親の勧めに従って修道女になる決心をしている。
慈雨ちゃんの葬儀で、両親は涙一つこぼさずに、こんなあいさつをした。
「慈雨は、美しい心のまま神様に召されていったのですから、悲しいことではないのです。こんなに早く召されて、どんなに喜んでいるか分かりませんよ。慈雨はほんとうに幸せです」
「みんなみんな神様のおぼしめしですから、きっと慈雨ちゃんも喜んでいるでしょう。・・・もしも神様が、この世に生かしておきたいとおぼしめすなら、きっと生き返るに違いないと思ったのですが、神様はやはり、早くおそばへ慈雨をお呼びになりたかったのでしょう」
「・・・地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。・・・彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです」(へブル11:13~16)
しかし、同級生の竹子とその母親は、この両親の言葉に仰天。母親は「慈雨ちゃんはかわいそうだね。かわいそうすぎる。あんなにあきらめの良い人に育てられてさ」と言って涙をぼろぼろこぼす。竹子はその母親の手を握りしめる。「荒れてガサガサした手は、しかしあたたかい右手でした」で、この童話は終わる。
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読者は思うだろう。(慈雨ちゃんは犬死にしたというのに、何という親だ。クリスチャンには人情のひとかけらもないのか。非常識な連中だ。だから、教会は敷居が高いのさ)
壷井は、生前からヒューマニズムに根差す国民的作家として定評があった。代表作の『二十四の瞳』は、かつて高峰秀子の主演で映画化され、私なども涙なしには見ることができなかった。しかし、この作家の射程距離は、しょせん地上の有限ないのちの枠内にとどまっている。それだけに日本の庶民の心情にピッタリ寄り添った“壷井流ヒューマニズム”は曲者であんがい手ごわい。
遠藤周作は『沈黙』の中で宣教師にこう言わせている。
「この国は考えていたより、もっと恐ろしい沼地だ。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」(そりゃまぁ、そうなのだけれど。でもね、それを言っちゃぁおしまいよ)
では、人はどうしたら永遠のいのちが分かるのだろう。
「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって・・・」(ローマ1:20)
鎌田のように謙虚にいのちを極めようとする人々に、神様はその本質を少しずつ明らかにしてくださることを期待したい。だから、失望せずに証しを重ねていきたいと願わされる。
壷井の上記の作品も、慈雨ちゃんの両親に“非常識”な言葉を語らせたことによって、むしろ作者の意図に反して、日本人の常識でははかり知ることができない永遠のいのちの世界というものを、垣間見て思いめぐらすきっかけを読者に与えたかもしれないではないか。(敬称略)
■ みちくさ通信:(1)(2)
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