「安倍政権と日本国憲法、そしてキリスト教」をテーマとしたインタビューシリーズの4回目として、宇都宮大学名誉教授(憲法学)で日本基督教団四條町教会員の宮本栄三氏(85)に、栃木県内の自宅で話を伺った。宮本氏は自らの戦争体験を語った上で、キリスト教や平和憲法との出会いを振り返った。その上で憲法と平和の問題について論じ、今の日本の政治に大きな危機感を表しつつ、自身の中で憲法9条と「自然に結び付いていった」という聖書の箇所を引用して、「子や孫の世代のために戦争しないこの国を守っていきたい」と述べた。
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私の少年時代は戦争の時代
私の少年時代は戦争の時代でした。私は1930年(昭和5年)、和歌山県海南市で生まれました。今は85歳です。37年(昭和12年)、7歳のとき中国への侵略戦争が始まり、11歳のとき太平洋戦争が始まり、15歳のとき戦争は終わりました。旧制中学4年生の時でした。終戦1年前の夏、私たちは学徒動員され、大阪の軍需工場で働かされました。寮生活です。新聞もない、一冊の本もない、そのような中で空腹に耐えて働いたのです。お国のためにという気持ちでした。
そして45年(昭和20年)、敗戦の年の6月1日、B29のものすごい爆撃で工場は壊滅し、九死に一生を得て、故郷へ帰りました。その当時、沖縄ではまだ悲惨な戦争が続いていました。鉄の暴風雨と呼ばれるような爆弾、艦砲射撃の下で日本軍約9万人が戦死したほか、沖縄の民間人も9万人余りが亡くなったのです。当時の私たちにはそんなことは全く知らされませんでした。戦争に勝つもの、いや勝たねばならないと思っていたのです。大日本帝国は天皇陛下のお国、天皇陛下は現人神(あらひとがみ)、生きている神様でした。このお国のため命をささげて戦えと教え込まれ、私はそれを信じた軍国少年でした。つらく悲しい少年時代でした。
同志社で変えられた人生
戦後の私は、このつらい思い出を断ち切るのに苦労しました。長い時間がかかりました。私は戦後一度も「君が代」を歌ったことはありません。家には「日の丸」の旗もありません。みな戦争の苦い思い出につながるからです。戦争がもたらした心の傷は今も大きなトラウマになっています。アジアの人たちの受けた傷はもっともっと深いでしょう。戦後3年目の48年(昭和23年)、私は同志社大学(旧制)予科に入学しました。それから私の人生は少しずつ、しかし大きく変えられたのです。
入学式のとき、予科長の児玉実用教授が式辞を述べられました。「同志社はキリスト教主義の大学であり、私たちは諸君ら一人一人を紳士として歓迎する」と。田舎から出てきたばかりのみすぼらしい姿の私が「紳士」とは? その意味がよく分からなかったです。しかしその一言が私の人生観を変えました。自由、自治、そして良心の全身に充満した人間になれという新島襄の教えであります。また、学生時代には内村鑑三の本をかなり読みました。軍国少年、皇国少年がここで人間としての生き方を教えられました。
朝鮮戦争が起こった50年(昭和25年)、戦争中から持っていた結核が発病しました。当時この病気になれば皆死ぬと言われていました。毎年十数万の人が死んだのです。私もやがてそうなるのだと恐怖に怯(おび)えました。死の影との闘いでした。2年ほどでようやく回復し復学、私は教会(日本基督教団京都教会)で信仰を告白し洗礼を受けました。受洗の直接のきっかけになったのは、賀川豊彦です。戦後間もなく、同志社の栄光館という講堂で賀川が講演したとき、その最後に「今日のこの講演に来た諸君の中で洗礼を受けようと思う者は手を上げよ」と言われ、20〜30人が手を上げ、私も手を上げました。受洗がまた私の人生を大きく変えたのです。
しかし、病気のため就職はできず、やむなく大学院に進みました。法科研究科の政治学専攻です。憲法学の田畑忍先生の教えを受けました。後に社会党の委員長になる土井たか子さんと共に政治学や憲法学を学んだのです。教授の指導は厳しく修士論文を完成するのに4年かかりました。土井さんも私も、後輩の2人の学友も、皆4年かけたのです。学問への道は並大抵ではありませんでした。この先生は頑固一徹な学者で、平和憲法擁護の先頭に立ち、「護憲に生き、護憲に死せん」をスローガンにして一生を終えられました。このようなキリスト教と平和憲法が私の人生のレールになっています。
私は9年前から、9条の会・栃木の代表を務めています。今は3人の共同代表の1人です。この会は、戦争を放棄した憲法9条を守っていこうという、草の根の市民運動です。今、9条の会は栃木県内に32ほど、全国に7500ほどあります。後期高齢者になった私が今もこういう運動を続けているのは、また戦争へと向かう足音を感じるからです。平和憲法をつぶそうとする動きに対する危機感です。
「戦後から戦前への流れを止めよう」
私は最近、講演を頼まれると、題を「戦後から戦前への流れを止めよう」としています。時間の流れからしますと、「戦前」が先で「戦後」が後です。戦後から戦前へというと時間の逆流です。私が「戦後」という言葉で意味しているのは平和憲法のことです。「戦前」という言葉で意味しているのは、この平和憲法を否定しようとする現代の政治のことです。特に集団的自衛権のことです。戦前のようなことが今また現実に始まっています。戦争を放棄した戦後の日本が、もう一度戦争への道をたどり始めたということです。ですから戦前への流れというのは、戦争への流れということです。こういう意味で「『戦後』から『戦前』への流れを止めよう」というテーマを付けるのです。(続く:戦争への道、集団的自衛権)