「戦争する国」に変えようとする安倍政権
私は今、この国の将来を心配しています。日本はこれからどうなるのか。戦後70年、この国は戦争してこなかった。一人の戦死者も出さなかった。こんな国は先進国の中で日本だけです。それは憲法9条があるからです。9条は一切の戦争をしない、戦力を持たない、交戦権も認めないという徹底した平和主義です。改憲論者たちはこの9条を削れという運動をしています。私たちはこの9条を守る運動を続けています。その成果もあって9条はこれまで守られてきたのです。
ところが安倍内閣は、9条の改正ではなく、その意味を変えるための閣議決定をしたのです。憲法改正の手続きを踏まないで、内閣が閣議決定で憲法の意味を変えるという、これは途方もない立憲主義の否定です。1936年(昭和11年)の2・26事件を思わせるようなことです。武器は使っていませんが、解釈で憲法を破壊する。これは同じことです。
安倍晋三首相が第一次安倍内閣のとき、真っ先に言ったのは、「戦後レジームからの脱却」でした。これは憲法を改正するということです。彼は教育基本法を強引に改め、憲法改正国民投票法をつくり、改憲への準備を進めました。そして2012年12月、第二次安倍内閣になってから、今度は具体的に改憲工作を始めたのです。
最初に、憲法96条の改憲手続きを改めようとしました。憲法96条は、憲法改正には、衆・参両方の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が発議し、国民に提案して、国民投票で過半数の賛成を得なければならない、と定めています。この3分の2を、2分の1に変えようとしたのです。これでは法律の制定と同じです。このように改憲手続きを改め、改憲のハードルを下げる。これには大きな反対が起こりました。安倍内閣はまるで裏口入学みたいなことをやろうとしていると批判され、これはやめました。
そして次に考えたのは、自分たちの内閣だけで簡単にやれることはないか、そうだ、閣議決定で憲法解釈を変えることだ、と考えたのです。そして準備のため安全保障有識者懇談会(安保法制懇)という私的懇談会をつくり、ここで検討させたのです。この懇談会のメンバーは、安倍首相のお気に入りの人ばかりです。そして昨年5月15日の報告書に書かれていたのは、アジアの現在の情勢から見ると、日本の安全保障の仕組みを変える必要があるということです。この提案に基づいて、7月1日に安倍内閣は集団的自衛権を憲法上使えるということを閣議決定で決めたのです。これは憲法9条の意味を読み替えて、「戦争する国」につくり変えることです。
集団的自衛権は「自衛権」ではなく「他衛権」
それでは集団的自衛権とは何でしょうか。個別的自衛権はどの国も持っている固有の権利です。これに対して集団的自衛権は、他国を守る権利で、本来の自衛権ではありません。つまり自衛権でなく、他衛権です。そのよい例が、米国と欧州諸国が1949年の冷戦時代につくったNATO(北大西洋条約機構)です。加盟国のうちの1カ国が受けた武力攻撃を全加盟国が受けた攻撃と見なして共同防衛をする。これが集団的自衛権です。
あの2001年9月11日、米国で同時多発テロが起こったとき、世界は衝撃を受けました。このとき米国はNATO諸国に呼び掛け、テロ集団アルカイダの根拠地とされるアフガニスタンを攻撃しました。これが集団的自衛権の行使とされたのです。参加したNATO諸国は多数の犠牲者を出しました。米国の犠牲者2360人以外に、NATOを中心とした参加国の犠牲者は1130人に上りました。一番多いのは英国の453人です。カナダ158人、フランス86人、ドイツ54人、イタリア48人、デンマーク43人と並びます。このように集団的自衛権というのは、自国が攻撃されなくても、同盟国が攻撃されると、これを自国への攻撃と見なして反撃することなのです。
わが国と米国は日米安保条約による同盟国です。それでは米軍が攻撃されたとき、わが国は集団的自衛権を使えるのか、米国はそれを執拗に求めています。これまでの日本政府の解釈では、それはできない。集団的自衛権は国際法上の権利であって、わが国もそれを持っているが、憲法による束縛があるから使えない、ということです。憲法上の束縛というのは9条のことです。自衛隊は専守防衛のための実力装置で、自衛隊ができるのは、日本が攻撃されたとき、必要最小限度の武力による自国の防衛である。これは田中内閣以来、歴代の内閣が言い続けてきた解釈です。
国民ごまかす理屈で憲法解釈を変更
それを安倍内閣が閣議決定でひっくり返したのです。ひっくり返すに当たって、いろんな理屈が使われました。安倍首相が一番の理由に挙げたのは、なんと憲法です。日本国憲法では、前文で「国民の平和のうちに生存する権利」がうたわれています。また13条には「国民の生命、自由、幸福追求の権利」があり、これは国政の上で最も尊重されるべきだとうたっています。
昨年5月15日に安保法制懇の報告書が出され、その夜、安倍首相の記者会見がありました。私はテレビで安倍首相が、平和、人権、幸福の追求という憲法上の言葉を使うのを聞いて驚きました。まるで護憲集会に来たような感じで、わが耳を疑いました。こういう言葉を使って集団的自衛権が必要だと言うのです。これはもはや正直な説明ではなく、国民をごまかす屁理屈です。そのため憲法の用語を使っているのです。
このように集団的自衛権を閣議決定で認めるということ。これは大変なことです。憲法の意味を時の内閣が勝手に変える。これは民主政治の基本を否定することです。憲法は権力者が勝手なことをしないように、憲法を尊重し、憲法に従った政治を行うことを政権の担当者に命じています。憲法尊重擁護の義務(99条)です。これが立憲主義ですが、安倍内閣はこの立憲主義を破ってしまったのです。
圧倒的多数の憲法学者は「違憲」 政府の食い違う説明
そして今国会で、安保法制法案の審議が行われています。審議されているのは、自衛隊法や周辺事態法など10の改正法案と国際平和支援法案の2つです。これらは集団的自衛権を実質化するための法案で、われわれはこれらを戦争法案と呼んでいます。その中身を簡単に言えば、同盟国である米国の求めに応じて、いつでも、どこへでも自衛隊を出して米軍を支援しますというものです。これは違憲です。先日、衆議院の憲法審査会に呼んだ3人の憲法学者がそろって違憲を表明し、今、自民党に衝撃が走っています。菅義偉官房長官は、合憲だという学者も多数いると言っていますが、そのような学者はごく一握りで、圧倒的多数の憲法研究者は違憲説です。
そして、安倍政権の国会での質疑応答は、不十分でちぐはぐです。安倍首相は話すことは話しますが、意味不明です。それもそのはず、歴代自民党内閣が違憲だからできないと言ってきた集団的自衛権を、合憲だと言い繕おうとするのですから、説明のしようがないのは当然でしょう。審議の初めの頃と、2週間ほどたった今の答弁は食い違っています(朝日新聞6月27日、横畠内閣法制局長官の答弁)。
安倍首相がしつこくこだわり続けるのは砂川判決です(朝日新聞6月27日、砂川判決について)。砂川判決(1959年)は、旧日米安保条約に基づく米軍の駐留が合憲かどうかが問われた事件で、最高裁は、安保条約の合憲性の判断は、高度の政治性を有し、原則として司法審査になじまないとし、判断を避けたものです。集団的自衛権とは何の関係もない判決です。ところが安倍首相は、この砂川判決の中に、自衛権を「国家固有の権能」としている文言に飛び付き、「最高裁は必要な自衛の措置は合憲であると認めた。憲法の番人としての最高裁の判断だ」と主張しています。安倍首相は砂川判決の中の都合のよい文言をつまみ食いしているのです。(続く:平和問題としての政教分離の問題)