「安倍政権と日本国憲法、そしてキリスト教」をテーマにした記事の第2回目は、深瀬忠一・北海道大学名誉教授へのインタビューに続き、もう一人の憲法学者でクリスチャンの稲正樹・国際基督教大学(ICU)教授に話をうかがった。稲教授は日本国憲法の平和主義の現状と展望、日本国憲法とキリスト教や自らの信仰との関係、そして最後に読者へのメッセージを語った。
以下がそのインタビューの主な内容である。
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――「安倍政権と日本国憲法、そしてキリスト教」というテーマで、まず最初に先生がいまお話になりたいことは何でしょうか?
そうですね。最初は日本国憲法からにしましょうか。特に日本国憲法の平和主義について大きな問題になっていますので、まずはそのことを申し上げてみたいと思います。
日本国憲法はできてから60数年経ちました。ただ、それが作られたときに、やはり1945年から1946年という7カ月の間に作られてしまったために、さまざまな議論がありますけども、国民自身が自分たちの手で憲法を作ったという経験が残念ながらありませんでした。その中でいま問題になっています憲法の基本的な原則=国民主権や人権保障や平和主義ということですけども、そのいずれについても、私たち国民は作るときには必ずしも十分な機会がなかった。その事情は、明治憲法の体制の下で力を持っていた日本の支配層が、敗戦後のポツダム宣言受諾以降も、天皇主権を維持したいということで明治憲法体制を転換することができなかった。そこで、いわば「横からの革命」という、変な言い方ですけれども、占領軍の手によって憲法の原案が起草されていった。しかし、私自身は、そこで単にアメリカの力が働いたということよりも、長い歴史のスパンの中で私たち人類が到達した非常に普遍的な原則が憲法の中に埋め込まれたと考えています。
例えば自由民権運動の時代のさまざまな私擬憲法草案とか、あるいはそれが元になったフランス革命の時代の、数百年さかのぼるような原則が確かに日本国憲法の中に盛り込まれていた。そういう意味で、前文の中にも、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民が享受する。これは人類普遍の原理であって、この憲法は、かかる原理に基づくものである」という言葉がありますように、日本国憲法が人類普遍の原理とか原則というものに基づいて作られたということは確かです。
そして、日本国憲法が制定されてから60数年~70年近い歴史の経過の中で、憲法を自分たちのものにしていこうとか、あるいは憲法をよりどころにして自分たちが生きていくさまざまな武器として、あるいはよりどころとして憲法を育てていこうという努力は、一貫してあったと思うんですね。いろんな方がいろんな言い方をしていますけれども、たとえば奥平康弘先生という憲法学で有名な先生がいらっしゃいますけど、奥平先生は憲法を文化として育てていく努力を私たちがしてきたと言われている。そういう言い方とか、あるいはICUの同僚の千葉(眞)先生という方がおっしゃっているんですけれども、日本国憲法は作られたときは十分なものではなかったけれども、いわばそれを次の世代に受け渡す一つの未完のプロジェクトというものとして私たちの前にあって、それを私たちが努力して自分のものにしてこようということだったと思うんですね。
ところが、いま起こっている、ここ1、2年で起こっている、憲法をめぐる一番基本的な動きというのは、それをはっきりと憲法改正してしまおうと。それで憲法改正をする場合には、変えてはいけない原則と変えてよいものがあるわけですけれども、例えば日本国憲法は作られてから一度も憲法改正が行われていない。他の国はたくさん改正があるのに、日本の場合は全然時代に適応していないから変えるんだという、何だかそれだけ聞くと「そうかな」と思うようなこともありますけども、いま提案されている日本の憲法改正の場合は、時代に合わせるというそこのことではなくて、いわばその大本になっているものを全部ひっくり返してしまうというような改正が提案されているというふうに、私は考えております。
例えば平和主義のところでは、9条を元にした日本の国のあり方を全く変えて、国防軍という名前にして、軍隊を持ったり、あるいは特別の軍事裁判所を作ったり、あるいは福島の3・11を契機として、ああいう自然災害が起こったんだから緊急事態についての規定を憲法の中に入れなければいけないとか、あるいは、これは後で申し上げたいと思うんですけども、キリスト教と非常に重なっているところが一つ、いつも考えているところがあるんですけども、それは一人ひとりの人間が価値を持っていて、一人ひとりの人間が持つ価値を大切にしなければならないという、幸福追求権という規定が憲法の13条のところにありますけれども、こういう中で個人を大切にしていく、個人の尊厳を認めていく、個人を尊重していくという、個人主義に関わる重要なところがありますけれども、そういうものを全く違うものに変えていく。個人ではなくて、その人の個性も何もない、「人」として尊重するというふうに言っていますけれども、そういうものに変えていく。そういうようなものとしての憲法改正が、特に自民党が野党だった時代に発表された「日本国憲法改正草案」の中で強くうかがわれると思います。
憲法改正の限界を突破して文字通り憲法を改めて、正しいものに改めるのではなくてつぶしてしまう、あるいは完全に破壊してしまうというようなことがいま大きな時代の動きになっているような気がしております。それを昨年の参議院選挙の時にそういう提案があったわけですけれども、憲法改正手続を改正してしまおうというような議論もありまして、それはうまくいかなかったわけですね。そこで、相変わらず憲法改正ということを今の為政者、日本の権力を握っている人たちはそれを考えているわけですけれども、それが実現するのは、ご承知のように衆議院と参議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が発議し、これを国民に提案して国民投票によるその過半数の賛成を必要とするというような段取りになっておりますので、まだそこまで憲法改正が確実に実現できない。そういう段取りの中で、一つは、いま議論されているように、政府が憲法解釈を変えることによって、これまで他ならない自民党政権が長い間、「持っているけれども、日本国憲法の平和主義の考え方からすると、それを行使することはあり得ないんだ」と言っていた集団的自衛権を行使できるように政府で憲法解釈を変えてしまうと。それで、それを基にして秋からの国会でさまざまな立法化をしていくというような段階にきているような気がいたします。
そういう意味で、今まで70年間私たちが経験してこなかった、本当に重大な段階に直面しておりまして、それをどうやって、そのような道をストップしていくのか、あるいは国民の皆さんが大きな声を上げていくのかということが課題になっているかと思います。自民党・公明党の与党協議だけで、我々が考えていなかった解釈を採用して憲法の意味を変えてしまう。内閣法制局が長い間にわたって、これが国民に向って、あるいは国会議員に説明した際に、政府の立場であるとしていたものを根本的に変えてしまうということですから、ある意味で憲法は残っているわけですけれども、しかし残った憲法は全く意味のないものになってしまう。憲法の規範性、憲法のルールが持っている力を完全に奪っていくということがいま目指されようとしている。
この前の4月に宮田光雄先生の講演会が東京の信濃町教会でありまして、バルメン宣言の、殊に80周年のお話をおうかがいしました。宮田先生がその時にしきりにおっしゃっていたのは、ドイツのナチスが権力を握っていって、そして全てを変えていったのと、非常に二重写しになって見えるのは、いまこの2014年の日本で起こっていることである。まさにナチスが政権を握っていった時代と二重写しになっていて、これを止めなければならないと非常に力強くおっしゃっていましたけれども、私自身も宮田先生のそのようなお話を聞きながら、本当に大変な、まさしく正念場を迎えているなという気がいたします。
付け加えますと、日本の憲法の平和主義にさまざまな議論がありまして、それは、憲法のような考え方は現実的ではなくて実際にはもっと軍隊を持たなければならないという考え方がだんだん強くなってきているようにも思いますけれども、しかし憲法の9条や、あるいは前文の平和に生きる権利は、少なくともそれまでに日本と全く違う新しい国家を創る一つの基盤であったわけで、それがいま、戦争をしない国家から戦争をする国家へというふうに大きく踏み出そうとしている。政治家たちはリアリティーのない議論をお互いに党利党略で政治的なレベルでしているけども、それはもっと国民に責任を持っていただきたいと思うんですよね。実際に自衛隊員を出してたくさん死ぬ人が出てきて、あるいはアメリカと一緒になって戦争をしていくような国家に日本のあり方を変えていくという・・・。何のための私たちの60年間、70年間の経験だったのかということを考えますと、非常に大きな、いま行われようとしていることは、戦争しない国家との決別、あるいは象徴的なさまざまなものがありました。例えば武器を造らない、それをお金儲けにしないというような、平和国家のシンボルだった武器輸出三原則も変えましたし、昨年は秘密保護の法律も作ったりしております。それから、一部の人たちだけで国防や安全保障の問題を決めていくというような国家安全保障会議といった組織もできておりますので、いま憲法改正の一歩手前のところに来ていると思います。(続く)