――『時代を刻んだ憲法判例』に戻りますが、その中にある「一番小さく弱い人々」というのは、稲先生が日本国憲法の要請を新約聖書のマタイによる福音書25章に関連付けておられるということですか?
そうですね。はい。
―― それでは、先生のお考えでは、日本国憲法はキリスト教とどのような関係があるとお考えですか?
そうですね。キリスト教は非常に大きなテーマですけれども、キリスト教で、イエスが来たのは平和をもたらすためではなくて、人々の間に争いや紛争をもたらすためだという言葉もありますけれども・・・。
―― つまり「剣」(マタイ10・34)ですか?
剣です。剣っていうのはどういうことかなと思うんですけれども、これまで人類は神様によって創られてからお互いに紛争を繰り返したり、あるいは敵対を繰り返したり、憎しみを繰り返したりしてきましたし。私たちは神様に創られたもの(被造物)として非常に大きな限界を持っていると思うんですね。戦争と平和の問題も、やはり神が考える正しさとか、あるいは平和というものがあると思うんですけれども、それと全く違うものが、私たちが経験しているものがそこである。その中の一つとして平和というもの、あるいは憲法というものを考えていきたいなというふうに私自身は思っているんですね。
それで、何と言いますか、いくつかの考え方があって、うまくしゃべれないかもしれませんけれども、大きく二つの考え方があって、神様が支配しているというのは結局私たちの信仰の世界であって、そこで私たちが熱心に祈りをささげたり、あるいは神に応答すれば、それはそれで完結しているという、一つの考え方があると思うんですけれども。
しかしもう一つは、神様というのは、そのようなキリスト教、あるいは制度的な宗教の枠を超えた大きなお方であって、私たちの生きている全ての存在や秩序というものを見ておられて、そこで正しく、あるいは神に喜ばれる世界を良しとされる方だと思うんですよね。
そうしますと、戦争、あるいはそこで起こっているテロの問題とか、さまざまな平和でない状態、私たちがお互い憎しみ合うとか、私たちがお互い差別するとか、あるいはストレスを抱えて生きていくとか、そういう非人間的な状態であることを、神の目からすると良しとされないと思うわけです。
そうだとすると、全てを支配しておられる方というふうに、イエスが言われていることを私たちが理解するならば、文字通り全てであって、教会の中と教会の外、あるいは聖書と聖書以外というふうに分けて考えることはできないような気がします。全てを支配されているということになりますから。
そういう中で、日本国憲法の一番大切に考えていることは、一人ひとりの人間が価値を持って十分な生(せい)を全うしていくということが憲法の言葉によって語られているんですけれども、それを聖書的に読んでみると、一人ひとりの人間がそれぞれの持ち場で、それぞれの価値が十分満たされるような、そういう社会や国や、あるいは国を超えた地域というものを創っていくべきであるというようなことが私たちに命ぜられているような気がします。
特に私は、深瀬先生と同じ考え方なんですけれども、私たち日本国民が恐怖と欠乏から免れて生きていく権利を全世界の国民が持っているということを確認するという前文のところを聖書的に理解すると、そういうような恐怖と欠乏といった非人間的な状況を克服して、生きていくことができない、あるいは物質的な条件に恵まれなかったり、精神的な飢餓の状態にあると、そういうところから解放していくこの世を創っていきなさいというふうに神様が命じられているような気がします。憲法の中では、平和に生きる権利というものを持っているということを、全ての人が保障されて、そのことをあなたたち日本の国籍を持っている日本人は確認しなさいというふうに言っているんですけれども、イエスが日本に生まれた全ての人たちに、よく聞きなさい。そういうような地域的な秩序やあるいはそういうような国をつくりだしていくことが、あなたたちの実現するミッションとしてここにありますよ。そのためにあなたたちは働きなさいと命じておられるというように、ちょっと勝手なんですけども、そんな風に考えております。
―― 思想史的には日本国憲法の背景にキリスト教の影響があるのではという指摘もいろいろあるかと思うんですけども、そこについてはどうなんですか?
そうですね。もちろん、直接日本国憲法が作られたことに対して直接的な影響というよりも、平和主義思想という形で考えてみますと、もちろんキリスト教徒が考えていた平和思想、内村(鑑三)なり何人かの方たちの平和思想というのも考えることができるかと思いますけれども。
キリスト教はいろんな考え方があって、さまざまな立場の方がいらっしゃると思うんですけれども、やはりイエスが一番大切にされたことは、山上の垂訓の「心の貧しい人々は、幸いである」(マタイ5・3)とイエスが言われていることではないか。私は、フランシスコ会の神父である本田哲郎さんという方からすごく大きな影響を受けているんですけれども、本田神父の訳では全くそこが違うことになっていて、貧しい人は幸いじゃない。貧しい人っていうのは幸いじゃなくて、「心底貧しい人たちは、神からの力がある。天の国はその人たちのものである」と訳している。社会的弱者に沈黙と忍耐を押し付けるのではなく、抑圧からの解放を実践することが正義であり、正義とは神様の思いと合致した行動を意味する。それは、傷ついた部分のない状態である平和を実現させる働きである。誰かが抑圧・差別されているのを放っておくことができず、痛み・苦しみを共感、共有し、そこから解放に向けて具体的な行動を起こすことが、イエスの勧めていることだと、本田神父は言っています。ちょっと解放の神学と非常に似ているような感じがするんですけれども、でもそういうふうに私自身もそう思っているんです。何か慰められるために、きょう教会へ行って先生からいい話を聞いたなっていうような、そういう信仰じゃなくて、それを基にして自分の力の確信になるようなものでないと、本物の信仰でないような気がするんですよね。
それで、日本のキリスト教は、ほんとに小さくて、力が弱くて、マイノリティー(少数者)なんですけれども、そういう中で明治以来の主流はずっとエリートとか社会的なエスタブリッシュメント(体制)・・・あるいは聖路加の有名な先生・・・
―― 日野原重明先生ですね。
日野原先生とかいますけれども、一方では社会でほんとに苦しんでいる人たち、もうどうしようもなくなっている人たちに対して、私たちは本当に、私たちが受けた福音を一緒に「こういうものだよ」「こういうものがあるよ」と言って生きていくというのは、十分でないような気がするんですよね。そこが一番、私たちが大きくなっていくことができない理由かもしれません。社会の中で、いわば上澄みのところの、建前だけのところで、頭でっかちで信仰というものを理解していて、そうではない自分の本当に変えられていった生き方として、力を尽くしていくっていうところが、まだまだ足らない。そこがやっぱり大きな問題であるような気がいつもしているんですけれども。
―― 今の政権の中枢にもキリスト者が何人かいますけども。
そう言われていますね。麻生(太郎)さん(副総理・財務大臣)がそうなんですか?
―― 麻生さんとそれから・・・
石破(茂)さん(自民党幹事長)。石破さんの話は聞きましたけど、でもああいう人たちの信仰はどうなっているのか。例えば、麻生さんは麻生大会社の何代目かで、そしてああいう発言をよくなさっている。あるいは石破さんのように、軍隊をどんどん、アメリカと一緒に戦争しようということを確信を持って自分の政治信条としている人たちが、どういう信仰を持っておられるのか?例えば大平(正芳)さん(元首相)とかが前にはいましたけども、大平さんとは全く違いますものね。
―― 最後に、読者の皆さんに最も訴えたいメッセージがございましたら一言お願いできますか?
そうですね。安倍政権は本当に暴走していますね。その暴走は私たちがいまそれを止めなければますますそれがエスカレートして行く。・・・非常に、相手としては一流の人たちやすばらしい考えを持っていて私たちを引っ張っているわけではないと思うんですよね。非常に小粒な、日本語もはっきりしゃべれない、矛盾したことを言っていて、ただ感情に訴えて、しかしそれを自己が正しいものと信じている。その人たちをサポートする大きな集団や力がある。それが現状だと思います。本当に矮小な、陳腐な人たちが力を握っているわけですけれども、しかしそれは場合によれば、私たちが大したことないというふうに思って、あんな人たちはそんなひどいことはしないだろうとか、あるいはできないだろうと思っているツケが回ってくるんじゃないかと思うんですよね。ですから、これは、奥平先生がこの前のICUの集会で秘密保護法の時に私たち聴衆に向かって「denken(ドイツ語で「考えろ」という意味)」と言われて、その時にハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』(大久保和郎訳『イェルサレムのアイヒマン—悪の陳腐さについての報告』みすず書房、新装版、1969年)の話をちょっとされた。(アドルフ・)アイヒマン(ナチス政権によるユダヤ人の強制収容所への移送で指揮的役割を担ったドイツの親衛隊員)っていうのは、本当に、捕まってみれば矮小な、どこにでもいるような平凡な一市民であって、中年のみすぼらしい男だった。しかし彼があのようなホロコーストを起こしていった。その坂が転がるように、いわば誰も止めることができないような力学が始まって、いま日本で起こっていることはまさにそれに近いんじゃないかって。みんなが眉をひそめて「こんな人たち」というふうに思っている人たちが、どんどんどんどん、止めようのないことを始めようとしている。
私たちはそれを押しとどめることがなかなか(できない)。選挙もあと3年経たないとありませんし、できないわけですけれども、やはりいま起こっていることを正確に認識して、それを押し止める行動をぜひ起こしていただきたいと思っていますけども。
―― なるほど。ありがとうございました。
いえ。
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稲正樹(いな・まさき)氏:1949年神奈川県生まれ。北海道大学大学院法学研究科博士課程中退。岩手大学助教授・教授、亜細亜大学教授、大宮法科大学院大学教授などを経て、2006年から国際基督教大学教授。専門は憲法学・比較憲法・平和研究。日本基督教団所沢みくに教会員。「立憲デモクラシーの会」の呼び掛け人の一人。単著に『アジアの人権と平和』(信山社、2005年)、共訳書に『北東アジアの歴史と記憶』(勁草書房、2014年)、共編著に『アジアの憲法入門』(日本評論社、2010年)、『平和憲法の確保と新生』(北海道大学出版会、2008年)など多数。キリスト教関係では、深瀬忠一・橋本佐内・榎本栄次・山本光一編『平和憲法を守りひろめる―北海道キリスト者平和の会の証し』(新教出版社、2001年)で、「アジア・太平洋地域人権憲章の制定と実施をめざして」を、また岩手靖国違憲訴訟を支援する会編『岩手靖国違憲訴訟戦いの記録―石割桜のごとく』(新教出版社、1992年)で、「岩手靖国違憲訴訟の概要」をそれぞれ執筆している。最近の著作物の一つに、「安倍政権の進める戦争する国づくりと特定秘密保護法」(『法と民主主義』2014年4月号、No. 487、日本民主法律家協会刊)がある。
なお、8月15日(金)午前10時から、日本基督教団埼玉和光教会で行なわれる「平和を求める8・15集会」(同教団埼玉地区主催)で、平和憲法をめぐる問題について、稲正樹教授による講演が行われる予定。詳しくはこちら。