――昨年12月20日に行われたICU–上智国際シンポジウム「ナショナリズムを超えて?―アジアにおける平和構築と宗教―」では、千葉先生が基調報告「岐路に立つ日本政治と東アジアの将来:憲法破壊、靖国ナショナリズム、平和構築の課題」をされました(関連記事)。その中で強調された立憲主義や日本国憲法の平和主義、またシンポジウムのテーマであるナショナリズムは、キリスト教との関連で捉えることができるのでしょうか?
千葉氏:これは日本では非常に難しい問題で、クリスチャンが1パーセントの世界の中で、政治思想的な議論とキリスト教の議論を結び付けることに対する忌避感みたいのが、どちらかといったら知識人の中にあります。ですから、私も政治思想とか政治学、憲法学、立憲主義のテーマで語るときは、できるだけその土俵の中で、キリスト教の方に入らずに語ろうとしています。けれども、鎌田東二さんが編集している「キリスト教における平和のスピリチュアリティ」(新刊本『講座スピリチュアル学第3巻 スピリチュアリティと平和』(ビイング・ネット・プレス)、2015年4月6日の「第1部 宗教間の対立と対話」に掲載されている千葉氏の論文)では、結構キリスト教的なテーマを表面に出しています。ですから、私は二刀流をずっとやってきたのです。けれども、無教会で語るときや『内村鑑三研究』で書くとき、また『福音と世界』など・・・。でも、両方のつながりは常に考えながらやってきました。
私たちの世代では、柳父圀近(やぎゅう・くにちか)さんという人がいます。2014年9月15日、第36回内村鑑三研究会を今井館でやったときに、内村の預言者的ナショナリズムについて語られた方ですが、その方がそういうことをしていると思いますし、栗林(輝夫)さん(関西学院大学教授、神学者)もそうだと思います。やはり世俗に語るときは、牧師であり神学者ですけれど、そちらで勝負せずに、人権とか、部落民とか、そういう視点で。だから、私たちの世代の前の世代というか、一世代から一世代半前ですけど、宮田光雄先生や飯坂良明先生、さらに斎藤眞先生(東京大学名誉教授、アメリカ政治史)や京極純一先生(東京大学名誉教授、政治学者)も入るかもしれませんが、どういうわけかみんな東大の法学部でなのですが、クリスチャンの先生方が多いのです。やはり大体分けて語られていたと思います。一番大胆に両方を結び付けようとされたのが、宮田光雄先生と飯坂良明先生だと思いますが、それでもやはりオーディエンス(読者)を考えながら書いておられたと思います。
最後はやはり方法論的にどう考えているのか、という問いは多くの人に残りますので、それについて答えないといけないと私も思っていますが、まだ余命もう少しありそうかなあと思っていますので(笑)、方法論的にそこまで詰めて書いている論文とか本は書いていないですが、考えてはいます。
というのは、(カール・)バルトの「神の国の類比」という考え方がありますが、神の国の類比において一番地上で近いものを、私たちは相対的なこの地上の世界の中で選ぶべきだと。例えば、神の国における平和だから、できるだけ平和に近い方を選ばなければいけないとか。神の国においてはやはり、民族・男女の違い、そういうものもないので、ナショナリズムであるとか、ジェンダー的な male chauvinism(男性優越主義)であるとか、そういうものに対しては違和感があるとかです。そのような形で、神の国の現実から、逆に地上においてそこにつながるような方向と線を選ぼうというのがバルトの戦略でしたよね。そのようなことは考えています。
あともう一つは、(ラインホルド・)ニーバーの戦略ですが、聖書的な前提や命題と、社会諸科学や人文諸科学、歴史諸科学のいわゆる真理追究は、切れてないだろうと彼は言うのです。神の創った宇宙で、神の創った歴史で、(神の)導く歴史の中で、やはりつながっているのではないかと。ですから、学問的な真理の追究と、それから啓示的な、聖書的な真理の追究とは、どこかで同じ真理で結び付く可能性があると。やはり、ニーバーだったと思うのですよね。彼は大胆に政治や社会の諸事実の探求とか、そこにおいて命題的に適切なもの、キリスト教現実主義にあまりにも近づいて、パワー・ポリティクス(権力政治)の面が強調されたきらいはあると私は思いますが、彼の方法論としては、神学的なものと、社会的なリアリティーとが円環していたと思うのです。対話が彼の中でなされていた。ニーバーからも学べるのではないかという感じがしています。その他、ニーバーの弟のH・リチャード・ニーバーとか、いろんな人がキリスト教と文化とか、そういう面からずっと考えてきた伝統がありますので、やはりどこかで私も方法論的に書きたいと思ってはいます。(続く:内村鑑三の信仰とナショナリズム①)