――千葉先生の著書『「未完の革命」としての平和憲法』(岩波書店、2009年)の第I部「立憲主義の思想史的展望」で、千葉先生は、中世立憲主義の一断面である支配権力の制限ないし抑制について、君主の権力は「神と法の下に」制限され、臣民の同意に基づいて執行されなければならない(16〜17ページ)と述べておられます。それでは、近代以降の立憲主義においてはどうなのでしょうか?
例えば、その本の第1章3節で千葉先生は、「(18世紀のフランス思想家である)モンテスキューの立憲主義思想は、権力の分立と多元的諸力の均衡と抑制を骨子としていた」(22ページ)と述べておられますが、これは権力が集中すると暴君になるという、西方教会における性悪説に立った人間観に根ざしているのでしょうか?
そして、安倍政権が変えると明言している現代の日本国憲法においては、立憲主義における内閣総理大臣の権力の制限ないし抑制について、日本のキリスト者はどのように考えることができると思いますか? 日本同盟基督教団の水草修治牧師は、「憲法と王と平和」(『改憲へ向かう日本の危機と教会の闘い』(いのちのことば社、2014年)66〜101ページ)という論文の中で、立憲主義について聖書的観点から論じています。
千葉氏:(『改憲へ向かう日本の危機と教会の闘い』で)水草先生がおっしゃったことに、私は非常に「そうだなあ」と思いました。旧約聖書のサムエル記で、国王を立てることに、やはり預言者や人々は躊躇(ちゅうちょ)します。そして、神は国王というものに対して、あまりうれしく思っていないような、いろんなニュアンスがそのあたりに出てきます。そして、やはり律法を学ばなければならないと。律法が支配権力を抑制するものとして、旧約では捉えられていたといように、水草先生が書いておられます。私はなるほどと思いました。私はそこには気が付いていませんでしたが、なるほどと思いました。ですから、王は律法によって制限されると。このような意味で、古代的な意味で限界はあったでしょうが、王の役割を制御する制度・考え方というのは、やはり古代イスラエル社会も持っていたということなのだと思います。
これは非常に強い、すごい考え方だと私自身は思いました。これは教えてもらった点です。ですから、近代立憲主義もそうですが、また中世もそうでが、古代の立憲主義もやはり権力の制限・抑制、そういうことを考えているのだろうと教えられました。
水草先生が初めに記しているこの引用文、いいですよね。私はびっくりしました。「ああ、こんなところがあるのだなあ」と。「馬を増やすために、民をエジプトへ送り返すことがあってはならない」(申命記17:16)とか。最初のところが、申命記17章16節から20節です。これはまさに現代日本に対する大きな警告です。これはさすがキリスト教、あるいは聖書を熟知し(聖書に)精通されている先生の洞察と思って、驚きました。すごく良い勉強をさせてもらいました。
こういう考え方が、やはりモンテスキューの中にも流れ込み、ジョン・ロックの中に流れ込み、カントの中に流れ込み、近代の立憲主義につながっていて、私はやはり近代の世俗思想の中にキリスト教の大きな影響があると思います。キリスト教という形は取りませんが、例えば、デモクラシーとか。それはやはり創造主の前に全ての人は個として創られたと。男も女も民族の違いを超えて、全ての人は自由と平等を持っている人格者として、創造主の前に立っているという考え方です。旧約聖書の創世記から新約聖書に至るまで流れる思想が、やはり近代の西洋の思想史の中にずっと脈々と流れていて、それを世俗の思想家たちが自然権とか立憲主義とか、デモクラシーとか人権とか、平和思想とか平和主義とかいう言葉で焼き直していっていると私は思います。
チャールズ・テイラーというカナダの政治哲学者がいますが、そういうような諸価値はやはり多くの古代文明の中で、西洋だけではなく、古代の諸宗教によってつくられたというように考えています。そういうようなものが、とりわけ西欧、西洋社会においてはキリスト教によってつくられた。やはり価値原理ですから、何らかのインパクトがないといけないのです。そのつくられた価値が――彼は cultural mutation という言葉を使いますが――、今度は文化的な転換が起こって、骨子の価値観は同じだが受け皿が少し変わります。例えば、ルターの職業労働の聖化という考え方や万人祭司主義という考え方、キリスト者の自由・平等というような考え方が、今度は啓蒙思想とか自由主義、共和主義や社会主義によって、後代へと継承されていく。中身の実質的な価値は変わっていないという、それが世俗化の一つのモメントであると。
ですから、世俗化されればされるほど、いわゆる迷信とか旧世界に属しているいろんなものがなくなって、脱魔術化がいい意味で起こって、それでより世俗化された世界がキリスト教的世界になっていく面があることを、(チャールズ・テイラーの著書である)『A Secular Age』(Belknap Press、2007年)の中でテイラーが言っています。そして、そうした世界観・人生観・社会観・政治観を持っている多くの人が、意識することなく、キリスト教的な価値を現在いろんな形で持っている面もあるのではないかと言うのです。これは面白い議論で、『A Secular Age』を、今5〜6人の仲間と訳しています。遅れていてまだ出てないのですが、そのあたりは非常に面白いと思っています。立憲主義や平和主義もそういう面があるのではないかと少し思っています。
――教会でそれを直接取り入れようとすると、教会と何の関係があるのかという反応が結構あるようですが。
千葉氏:やはり教会の場合はそれぞれ長い伝統がありますから、「教会と世俗」という一つの大きな壁があると思います。無教会の場合は、無教会のもう一つの言い方で、「無境界」と書きます。あと「世俗の中の福音」。これは関根正雄が言った言葉ですが、世俗のただ中で福音を追求するということがあります。教会ほど、「世俗とキリスト者共同体」が区別されていずに、むしろキリスト教共同体にアイデンティティーを持ちながら――無教会にも共同体はありますので、エクレシアはあると思いますが――、しかしそこから出て行って、外で福音の真理の証しをしないといけなというのは、すごくありますよね。ですから、時々世俗の中からもう一度共同体の内部に入ったりまた出て行ったりと、往来することがすごくあると思います。
それで、教会の場合にはやはり長い歴史がありますので、改革派なら改革派の、カルヴァン以降のものすごい蓄積があるわけでしょう。ルター派ならルター派、カトリックはもっともっとさかのぼりますし、だから簡単ではないだろうと思います。さかのぼっていくうちに、やはり教会は大きな制度になり、教会法もあり、教会を govern する(治める)、いろいろなものができます。二ケア会議とか、いろんな会議でいろんな教義が決まっていき、ですから、そういう違いが少し無教会とはあるのかもしれないです。(続く:日本国憲法の平和主義とキリスト者の平和思想)