それからもう一つ、ナショナリズムについて私が少し言いたかったのは、これは赤江さんに対して少し批判でもありますが、2015年4月に『内村鑑三研究』の中に入れて刊行されていますが、そこで私は注4で書きました。無教会を捉ええる場合に、ナショナリズムという言葉がはやっているのですが、赤江さんの場合は「キリスト教ナショナリズム」ですし、無教会内部にいる柳父さんの場合にも、第36回内村鑑三研究会では「預言者的ナショナリズム」でした。無教会をナショナリズムとして捉えるのは間違っていないのですが、内村鑑三も国家や民族という言葉は積極的に使ったことはないのです。だから、彼にナショナリズムがあるとすれば、いい意味での愛国心であり、あるとすれば祖国日本みたいな、日本の自然とか山河とか、そういうイメージなのだろうと思います。ですから、彼は「国」と言います。「国」を愛する。「国家」でも「国民」でも「民族」でもないのです。そこは要注意だろうと思います。
それから、内村鑑三は民族主義という言葉や国家主義・国民主義という言葉は一切使っていません。ナショナリズムという言葉も使っていない。明治のあの頃はまだ国家も未整理でしたし、ナショナリズムという概念がしっくりこなかったと考えていいのではないかと思いますが、明治の後期になると日清戦争・日露戦争を経て、ナショナリズムの言説が出てきますが、内村の場合はもう少し早かったのではないかと思います。
ですが、内村は愛国心という言葉は使っています。彼は愛国心を批判もしています。日本を特別な国として偏愛する態度を、「愛国的妄想」と言っています。そして、愛国心というのはならず者が最後に隠れる場所だと言っています。「悪人」という言葉を使っていますが、明治の人には厳しい言葉です。でも、これは英国文学の歴史に出てくる18世紀のサミュエル・ジョンソン博士の言葉です。それを見ると rascals となっていますので、「悪人」というよりは「ならず者」です。ですから、「愛国はならず者の最後の隠れ家だ」というのがいいだろうと思います。
それからもう一つ、19世紀の英国の哲学者のハーバート・スペンサーが、愛国心は「利己心を拡大したもの」であるため、十分に気を付ける必要があると言っています。
さらに、内村は、大国日本ではなくて小国日本ということを言ったのです。デンマークとかスイスとかスウェーデンとか、ああいう国が日本のモデルになるべきで、ドイツ・プロシアとか、英国とかフランスとか、米国をモデルにしてはいけないのではないかとずっと言っています。
それで、「早晩必ず亡ぶべき日本」と言うのです。これは、「貴族、政治家、軍隊の代表する日本」だと言うのです。そして、「亡ぶべからざる日本」、永久に残る日本としては「勤勉正直なる平民の日本」ということを言うのです。だから彼のことは、ナショナリズムという言葉がどうなのかなという感じが少しあります。
それともう一つ、矢内原・南原にもナショナリズムの面があるにはあるのですが、自らナショナリズムという言葉は使いませんでした。民族共同体や国民共同体という言葉は使っていますが。それと彼らの一種のナショナリズムでもありますが、共和主義的なところとか、今でいうコミュニタリアンですが、共同体主義的なところとか、そのようなもの、リベラルなところもあるわけです。それが同居したナショナリズムですので、現代の政治学の観点からいうと、リベラル・ナショナリズム、そういう議論が当てはまりそうだと思っています。赤江さんの本は素晴らしい本ですが、ケチをつけるつもりはなかったのですが、私の違和感を少し書いておきました。(続く:立憲主義とキリスト教)