宮村武夫
1939年東京深川生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部(組織神学)修了。宇都宮キリスト集会牧師、沖縄名護チャペル協力宣教師。クリスチャントゥデイ編集長兼論説主幹。(2019年8月16日死去、プロフィールは執筆当時のものです。現在はクリスチャントゥデイ名誉編集長)
1939年東京深川生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部(組織神学)修了。宇都宮キリスト集会牧師、沖縄名護チャペル協力宣教師。クリスチャントゥデイ編集長兼論説主幹。(2019年8月16日死去、プロフィールは執筆当時のものです。現在はクリスチャントゥデイ名誉編集長)
今回と次回は、性に関わる記事やカトリック教会に対する態度を含め、本紙の記事を、記者はどのような目的・動機(今回)で、また、いかなる態度(次回)で書こうと自覚しているか、報告したいのです。
先週土曜日掲載の「聖書をメガネに 本紙の記事執筆について・その3:性に関する記事の執筆について」のコメント欄で、匿名の読者から、下記のコメントがありました。
今回は、各論の第2として、性に関する記事の執筆について2つの面から「聖書をメガネに」の方法と実践がどのようなものか紹介します。
前回の本紙の記事執筆についての基本的理解に立ち、各論的に、カトリック教会に対する態度について取り上げます。
同性愛問題やカトリックについての本紙の記事をめぐり、幾つかの意見や反論が、最近、コメント欄を中心になされました。個人的に対論できる場合は、なるべくそのようにしております。しかし、それにも制約があります。2、3の基本的な点を確認しましたので、お伝えします。
2016年のペンテコステ、ヘブル人への手紙における聖霊ご自身についての記述の中から、その一つ9章1~14節を選び、特に9章14節に焦点を絞り、ペンテコステとは何か、基本的な意味の一端を心に刻みたいのです。
多様性が増せば増すほど、同時に、記事とコラム全体の統一性が問われてくるのは当然です。どれほど多様な記事であり、コラムであっても、それらは一つの視点と視野を共通すると理解します。そうです、小紙の「報道理念」を確認したいのです。
2016年イースターに私たちが直面している事情も、アブラハム自身やヘブライ人の著者と受信人たちと全く同じです。事実を証言する言葉・聖書の下に自らを置くかどうかが課題です。確かなことは、主イエスの復活を証言し、死者の復活を信ずる弟子たちの姿を伝える聖書テキストです。
牧会は、牧会者。牧師だけがするとの理解と主張に違和感を覚え続けてきました。これに対する私なりの牧会理解と主張の要点を、沖縄で20年近く礼拝の生活を共にした中嶋聡兄が、私の著作集1『愛の業としての説教』に書いた推薦文において、よく言い表してくださっています。
今回の考察の締めくくりとして、やはりローマ8:18~25に言及せざるを得ません。1963年9月に始めたニューイングランドでの3年間の学びを通して、ローマ8:18~25は、私の心の奥深く刻まれ、その後の歩みの基盤となりました。
今日も、内外の悲惨なニュースを耳にし、目にしています。これは、何も今年特別なことでなく、初めのクリスマス以来歴史を一貫している現実です。そこで、初めのクリスマスの描写で軽視されがちな場面を注意し、今年のクリスマスの全体像を受け止めたいのです。
時代と地域を越え、一つの、聖く、あらゆる人間的な差別の壁を越える、聖なる公同の教会を信ずと告白するため、その根拠、ヨハネ17章が描く大祭司イエス・キリストの祈りにひたすら目を注ぐ必要があります。特に、「一つ」について、20~23節の箇所で繰り返し強調しています。
私たちの今の考察を、少し俗っぽい切り口から確認したいのです。それはアンチ「ここだけの話」と表現したい切り口です。「聖なる公同の教会」の「公同」の文字と内容は、輝いて見えます。先に「記憶と記録」を連載で論じた際も確認しました。
前回の応答が総論的なものであるとすれば、今回は各論としての応答をしたいのです。各論の対象として焦点を合わせるのは、前回紹介した本書の全体像の第6部「鶴岡のキリスト教」、しかもそのうちの3項目だけに限ります。
もう一つの切り口は、聖霊ご自身と聖書、教会の関係をどう受け止めるか。以下の3関係理解と言えます。① 聖霊ご自身と聖書の関係、② 聖霊ご自身と教会の関係、③ 聖書と教会の関係。私たちが教会と呼ぶ際、特定の地域の、特定の教団教派の地域教会を普通指します。
この一冊の書を二重の意味で著者・矢澤先生から受け取ったと理解しています。第一は、貴重な寄稿、―それも3回も掲載することができた―その内容の背景を詳しく知ることができる資料としてです。
今回は、前回の徹底した聖霊(ご自身)信仰と不可分な徹底した聖書信仰を、上記のⅡテモテ3:16、17を手掛かりに確認したいのです。そうです、Ⅱテモテ3:16、17では、聖書の特徴また有効性について明言しています。
とてもしゃれた感じの書名です。「ギリシャ語」という普通とっつきにくい感じを与える言葉が「響き」と結ばれていて、本のほうから躊躇(ちゅうちょ)する読者へ近づいてくる印象を受けます。
使徒信条の「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり(中略)を信ず」の部分に焦点を合わせます。その上で、3点に注目し、徹底的な聖霊(ご自身)信仰と徹底的な聖書信仰が指し示す聖霊(ご自身)論を少しでも深め、展開したいのです。
「聖書をメガネに」と言うとき、当然聖書をどのように読むかが課題になります。その答えとして、私なりに、聖書を「使徒信条」と対話しながら読み進める道を選んできました。この道を、一人の人間・キリスト者、そして牧師・神学教師として、60年前後歩んできました。