私たちの今の考察を、少し俗っぽい切り口から確認したいのです。それはアンチ「ここだけの話」と表現したい切り口です。
「聖なる公同の教会」の「公同」の文字と内容は、輝いて見えます。先に「記憶と記録」を連載で論じた際も確認しました。神の言葉が記録されている重要な意味は、神の言葉が、いつでも、どこでも、誰に対しても公開されているので、公同性が、実際的に生きたものとなっている事実により示されているのです。
生ける神を信ぜず、神の言葉・聖書の権威も認めない人々がなすどんな真剣な批判の前にも、聖書が自らを公にさらしている事態は、聖なる公同の教会を支える聖書の真の威力・権威を明示していると、私は理解します。
聖書に立つ、「聖なる公同の教会」を信じ告白する、地上の組織の教会の営みに、なお落とし穴が存在すると認めざるを得ません。
それがまさに、「ここだけの話」的生活態度や習慣と判断します。組織の教会の各種レベルの集会において、開かれた会議を経て意思決定の決議がなされ、組織に属するすべての人々に決議が的確に伝達され、決議と実際の関係を判断し批判する道が開かれている。これが、聖霊、聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信じ生きる者の日常的経験であるべきです。
そうでないと、建前では公同の教会を告白していても、会議も教会も、「ここだけの話」の少数者により私有化される危険があります。
クリスチャントゥデイの編集会議が、いかに実質的に「公同の教会を信ず」の信仰告白を体現しているか自問を続けながら、課題を思索する必要があります。
■ 我は聖霊、聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず: (1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部(組織神学)修了。宇都宮キリスト集会牧師、沖縄名護チャペル協力宣教師。2014年4月からクリスチャントゥデイ編集長。