時代と地域を越え、一つの、聖く、あらゆる人間的な差別の壁を越える、聖なる公同の教会を信ずと告白するため、その根拠、ヨハネ17章が描く大祭司イエス・キリストの祈りにひたすら目を注ぐ必要があります。
特に、「一つ」について、20~23節の箇所で繰り返し強調しています。
「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです」
この「一つ」の事実を、「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです」(エペソ4:5)と、パウロは印象深く提示しています。
しかも同時に、初代教会において、にせ使徒やにせ教師の存在を、真正面から指摘しています。その代表的例は、ペテロの手紙第二です。1章のキリストの復活、3章の再臨にはさまれ、2章ではにせ教師について直視しています。
聖なる公同の教会を信ずることと、にせ教師の課題を直視することは両立するのです。新約聖書や初代教会においても、私たちの現実においても。
■ 我は聖霊、聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず: (1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部(組織神学)修了。宇都宮キリスト集会牧師、沖縄名護チャペル協力宣教師。2014年4月からクリスチャントゥデイ編集長。