「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです」(ヘブライ11:19)
ヘブライ人への手紙11章17、18節は、主イエスの復活を信じる弟子たちとアブラハムとの間に、約2千年の世紀の隔たりがある事実、しかもその事実を越えてアブラハムが持つ明確な復活信仰について記述をなしています。同様に、約2千年の世紀の隔たりの事実に直面しながら、私たちがなお何を根拠に死者の復活を信じる必要があるか、また何を根拠に主イエスの復活を信じることができるか(ローマ8:23)、徹底的な聖書信仰に対して大切な示唆を与えています。
死者の復活と主イエスの復活、そして私たちの生き方の基盤との切り離し得ない関係について、パウロが明言している言葉「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(Ⅰコリント15:13、14)を再確認しながら、(1)ヘブライ11章17~19節、(2)創世記22章に注意したいのです。
ヘブライ11章17~19節
ヘブライ人への手紙の著者は、11章17~19節において、アブラハムの信仰を明示しています。まず、17、18節では、アブラハムが神の言葉に応じている事実を二度繰り返し強調しています。
「イサクを献げました」(17)
「独り子を献げようとしたのです」(17)
さらに、神の約束を与えられており、その約束に堅く立って命令に応答した事実をも、二度繰り返しています。
「約束を受けていた」(17)
「この独り子については、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』と言われていました」(18)
この2本の柱を固く結ぶ要として、アブラハムが死者の復活の信仰を持っていたとヘブライ人の著者は18、19節で明言しています。
「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です」(18、19)
創世記22章
ヘブライ11章17節以下で、アブラハムが試練を受けたとき、「イサクを献げ」たと著者が記述しているのが、創世記22章に基づくことは明らかです。同様に、アブラハムが死者の復活の信仰を持っていたと断言するのも、創世記22章に基づくと見るのが自然です。では、創世記22章のテキストのどこに基づいて、アブラハムがそのような信仰を持っていたとヘブライ人の著者は断定しているのでしょうか。二つの根拠が考えられます。
一つは、22章5節のアブラハムの言葉です。アブラハムは、神が命じられた場所が見えたとき、2人の若者を後に残して、語ったのです。5節の前半には「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい」と記されています。
注目すべきは、5節の後半「わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる」の部分です。イサクは、ささげものとしてささげられるなら、当然死ぬわけです。生きて戻れないにもかかわらず、自分と同様、イサクが戻ってくるというのは、決してでまかせではなく、死が事実であると同様、戻ってくることも事実として受け入れている。つまり、死からよみがえらせられるとアブラハムは信じていると、ヘブライ人の著者は理解し、言明しているのです。
もう一つの箇所は、創世記22章6節以下です。アブラハムとイサクが、神が命令された場所へ歩み進みながら、会話を交わしています。イサクの「焼き尽くす献げ物にする子羊はどこにいるのですか」(7)との問いに対して、アブラハムは、「焼き尽くす献げ物の子羊はきっと神が備えてくださる」(8)と答えています。5節の場合と同様、アブラハムは、イサクを通して子孫が祝福されることと、イサクをささげる両方に従うのです。つまり、死者をよみがえらせてくださると信じていたと、ヘブライ人の著者は判断しています。
ヘブライ人の著者は、創世記22章の言葉に基づいて、あの時、あの場所でアブラハムは死者の復活を信じる証人であったと、過去の事実として指し示しているばかりではないのです。ヘブライ人の著者や受信人にとって、死者の復活を信じる自分たちのための、今ここでの証人として指し示しています。
主イエスの復活と弟子たちの死者復活の信仰から、約2千年の世紀の隔たりを越えて、今、ここで私たちが同じ信仰に立つ根拠は、聖書が証言する神の約束の下に自らを置き続けることです。そうです、事実を記録する言葉をどのように受け止めるかが、あの時、あの場でアブラハムにとって課題でした。同様に、アブラハムから2千年の隔たりを越えてヘブライ人の著者や受信人にとり、創世記22章とその解釈(ヘブライ人への手紙)が「道の光」「歩みを照らす灯」(詩編119:105)であったのです。
2016年イースターに私たちが直面している事情も、アブラハム自身やヘブライ人の著者と受信人たちと全く同じです。事実を証言する言葉・聖書の下に自らを置くかどうかが課題です。私たちにとり、確かなことは、主イエスの復活を証言し、死者の復活を信じる弟子たちの姿を伝える聖書テキストです。なぜ聖書記者たちは、主イエスの復活信仰と死者の復活信仰を持ったのか。それは、パウロの場合のように、復活のイエスの顕現に出会ったからと明らかにされています(Ⅰコリント15:5、6)。
このような聖書の証言を全体として受け入れながら、アブラハムが直面したと同様な、相反するかに見える課題の両面を受け止める歩みをなし続けた先達の一人として、内村鑑三の例を覚えます。内村は、58歳の時点で「聖書全部神言論」(1918[大正7]年)を書き表しています。この徹底した聖書信仰に立って、1930年、70歳の生を終えるまであの時代の日本の歴史の中で、聖書にすがりつつ歩んだ姿に学ぶ必要を、この年のイースターにあらためて痛感しています。
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部(組織神学)修了。宇都宮キリスト集会牧師、沖縄名護チャペル協力宣教師。2014年4月からクリスチャントゥデイ編集長。