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戦後のキリスト教ブームの中で生まれた口語訳聖書、今にも生きるキリシタン時代の聖書訳

2026年6月2日11時15分
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戦後のキリスト教ブームの中で生まれた口語訳聖書、今にも生きるキリシタン時代の聖書訳+
第2部で講演する聖書学者の吉田新氏(左)と日本語学者の近藤泰弘氏(右)=5月9日、青山学院大学(東京都渋谷区)で

口語訳聖書の刊行70周年を記念する講演会が5月9日、青山学院大学(東京都渋谷区)のガウチャー記念礼拝堂で行われた。日本聖書協会が主催したもので、第1部では、昨年『ゲーテはすべてを言った』で第172回芥川賞を受賞した鈴木結生(ゆうい)氏が講演するとともに、ドイツ文学者で翻訳家の松永美穂氏(早稲田大学教授)と対談。第2部では、聖書学者の吉田新氏(東北学院大学教授)と日本語学者の近藤泰弘氏(青山学院大学名誉教授)が講演した。(第1部の記事はこちら)

戦後のキリスト教ブームと口語訳聖書の誕生

吉田氏は「口語訳聖書と戦後日本のキリスト教」と題し、口語訳聖書の成立過程を概説するとともに、講演会全体のテーマ「口語訳聖書がひらいた地平─ことば・文学・信仰をめぐって」を踏まえ、口語訳聖書が開いた「3つの地平」を語った。

終戦の年の1945年、日本で頒布された聖書はわずか23冊だった。しかし、翌46年の頒布数は一気に101万冊へと跳ね上がる。以後、ほぼ毎年100万冊を超える聖書が頒布され、50年と51年にはそれぞれ300万冊を超えた。

日本聖書協会は空襲被害を受け、戦後しばらくは独力で聖書を出版する能力を失っていた。それにもかかわらず、戦後すぐに膨大な数の聖書を頒布できたのは、米国聖書協会が日本に1千万冊の聖書を贈る運動を起こし、米国で印刷した聖書を日本に送る体制が整えられたことによる。これと並行して、日本のキリスト教徒の数も増加し、日本基督教団では年間受洗者数が1万人を超える年が続いた。

こうした「キリスト教が非常に活気づいていた」時代に刊行されたのが、口語訳聖書だった。翻訳のスピードも驚異的だった。新約は1951年10月に3人体制で翻訳を開始し、54年3月には印刷され、同年4月から頒布が始まった。旧約はその翌年に出版された。新約のみの大正改訳でさえ、明治元訳からの改訳に7年半を要したが、口語訳の新約は着手からわずか2年半余りで完成している。2018年に刊行された聖書協会共同訳に翻訳者・編集委員として携わった吉田氏は、「あれだけ分厚い本(聖書)を、この短さで訳すのは尋常じゃない」と驚きを込めて語った。

この翻訳の速さを支えた背景として、吉田氏は幾つかの要因を挙げた。一つは、大学で教鞭を執るなどしていた聖書学者らに退職してもらい、フルタイムで翻訳業務に専任してもらったこと。また、少数の翻訳者が、専用に設けられた翻訳室で集中的に取り組んだことも、大きな要因として挙げた。さらに、旧約については、戦時中から明治元訳の改訳作業が進められており、それをベースにすることができたという。新約についても、個人で口語体の聖書訳を出版していた先行事例があり、それらを生かすことができた。

戦後のキリスト教ブームの中で生まれた口語訳聖書、今にも生きるキリシタン時代の聖書訳
「口語訳聖書と戦後日本のキリスト教」と題して講演する吉田新氏

文語体から口語体へ─驚天動地の出来事

口語訳聖書が開いた地平として、吉田氏が1つ目に挙げたのは、文語体から口語体への変化。聖書を文語体から口語体に改めたことは、「日本の聖書翻訳の歴史からすると驚天動地のことだった」と強調する。

1880年に明治元訳の新約が出版されてから、1954年に口語訳の新約が出版されるまで、実に74年の月日がある。この間、日本語は大きく変化し口語体が広く用いられるようになっていたにもかかわらず、聖書は文語体を守り続けた。「聖書の文体は簡単に変えてはいけないという意識が、日本のキリスト教の中には広く共有されていた」と吉田氏は指摘する。

文体を変えることは、それに属する精神性を改めることにもつながる。吉田氏は、1946年に公布された日本国憲法が口語体で書かれたことについて、著名な法学者の横田喜三郎が著書の中で、「これではじめて、われわれの憲法という気がする。憲法がわれわれの身についた気がする」と述べていたことを紹介した。

一方で、日本語聖書の歴史をたどると、口語体がその出発点にあったことも紹介。ドイツ人宣教師のカール・ギュツラフが1837年に出版した『約翰福音之伝(ヨハネによる福音書)』は、現存する最古の日本語聖書だが、基本的に口語体で書かれていた。日本語聖書は、口語体で始まり、その後文語体となり、そしてまた口語体へ戻るという変遷を経ていることを語った。

最新研究を生かし、日本人が手がけた最初の聖書

口語訳聖書が開いた2つ目の地平として、吉田氏は日本人翻訳者の役割を挙げた。それまでの日本語聖書は、日本人が補佐役を担いつつも、外国人宣教師が主体となって訳してきた。これに対し、口語訳聖書は、全てが日本人の手によって訳された最初の聖書だった。また、最新の研究を生かした聖書訳でもあり、吉田氏は3つ目の地平として挙げた。

最後に吉田氏は、口語訳はその後に続く共同訳、新共同訳、聖書協会共同訳の礎になっているとし、その歴史的な意義を強調。「口語訳聖書が、戦後の日本のキリスト教に与えた影響が大きいことは明らか」と述べた。

戦後のキリスト教ブームの中で生まれた口語訳聖書、今にも生きるキリシタン時代の聖書訳
「日本語史からみた聖書の日本語訳」と題して講演する近藤泰弘氏

今にも生きるキリシタン時代の聖書訳

続いて近藤氏が、「日本語史からみた聖書の日本語訳」と題して講演した。近藤氏は、聖書を日本語に訳す営みはキリシタン時代に始まっており、400年余りの歴史があると指摘。江戸時代の禁教令により一度は途絶えるものの、明治時代の翻訳者たちもそれらを参照した形跡があることを紹介した。

キリシタン時代に聖書全体を訳したものが出版されたかどうかは不明だが、イエズス会士らが日本語に訳した教理書『どちりいなきりしたん』などの中には聖書の一部が含まれており、その翻訳の質は注目に値するという。近藤氏は、「主の祈り」を『どちりいなきりしたん』、明治元訳、大正改訳、口語訳で比較し、その変遷を説明した。

『どちりいなきりしたん』では、主の祈りの冒頭は、「てんにましますわれらが御(おん)おや、御(み)名をたつとまれたまへ」と訳されている。「てんにまします」は、原文では関係代名詞節だが、それが連体修飾に置き換えられており、これは「キリシタンたちの発明」だと近藤氏は言う。また、続く「御名をたつとまれたまへ」には、原語には存在しない敬語要素が加えられており、これはその後の聖書訳の大きな基盤になっている。

明治元訳の主の祈りは、漢文訓読的な表現が見られ、中国の漢訳聖書の字面を多く取り入れていることから、漢字表記が多い。大正改訳になると、漢訳聖書の字面から脱し、日本語としてより自然な表記に改められている。口語訳では、それまでは敬語として尊敬語しか用いられていなかったのに対し、丁寧語が登場するようになる。近藤氏は、丁寧語について「これが口語訳の一番大きな特徴」と話した。

聖書原典にはない敬語

聖書の日本語訳における敬語の扱いは、重要な論点だという。聖書の原語であるヘブライ語やギリシャ語には日本語のような敬語は存在しないが、敬語を全く使わずに日本語に訳せば不自然になるからだ。

一方、原典にないものを入れることは、簡単ではない。明治元訳では、神格(神またはイエス)に対してのみ「給(たま)う」「御(み)」の尊敬語に限り認める厳格なルールを定め、敬語を非常に限定的に使用していたことを紹介した。

「神」か「上帝」か

近藤氏はまた、「タームクエスチョン(訳語論争)」と呼ばれる問題にも触れた。19世紀の中国では、「God」をどう訳すかを巡って対立があり、英国系宣教師は「上帝」を、米国系宣教師は「神」をそれぞれ主張し、真っ二つに分かれていた。

日本でも、明治元訳以前に、漢訳聖書に返り点や送り仮名を施して出版された訓点聖書では、米国聖書協会主導の訳は「神」を、英国系の聖書協会主導の訳は「上帝」を採用しており、中国における訳語対立が同時並行的に再現されていたという。近藤氏は、日本語の聖書翻訳は国内に閉じた動きではなく、国外の翻訳の潮流とも連動していることを指摘した。

最後に近藤氏は、それぞれの時代のふさわしい日本語の表現や文体を形にしてきたのが、聖書翻訳だと説明。また、聖書翻訳の歴史は、宗教史だけでなく文体史や文化史といったさまざまな側面を含むものであることを語った。

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