先週土曜日掲載の「聖書をメガネに 本紙の記事執筆について・その3:性に関する記事の執筆について」のコメント欄で、匿名の読者から、下記のコメントがありました。
>(聖書は)男性、女性の違いや関係を絶対視せず
編集長さんは上記のようにおっしゃっておられるが、聖書は男女の性差を明言している。
「同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。」ローマ1:27
このように聖書は、男女間の性的交わりが「自然の関係」であり、同性愛に走ることは「恥ずべきこと」だとはっきり述べている。
また編集長さんは、「男性と女性の違いを越え」る人間存在を現代に見出そうとしておられるが、男女の違いを超えるのは「復活の時」のことだとイエスはおっしゃっている(マタイ22:30)。
信者の復活は再臨(携挙)の時に起こるのだから、「男女の違いを超える」のは「今の世」ではなく「来るべき世」でのことである(1コリント15:52、1テサロニケ4:16~17)。それを現在に適用するのは、筋違いも甚だしい。
編集長さんが「愛」と呼んでいるものが聖書の愛なのか、単なるヒューマニズムの愛なのかは、いずれ明らかになるだろう。
異端であるエホバの証人ですら、彼らなりの聖書信仰に立って同性愛を否定している。
編集長さんがこの世と調子を合わせて世の友となるか、それとも神への愛を貫くか、とくと拝見させていただこう(ヤコブ4:4)。
「聖なる公同の教会を信ず」と告白する者として、いつでも、どこでも、実名を明らかにし、自らの責任を公の場でとる覚悟を示さない発言者と、真の対話が成り立つのか、大いに疑問です。
しかし、ここに見る、自分の意見を主張するために聖句を誤用・曲解するレッテル張りは、聖書全体の有機的関係を重視しながら活用する聖書主義と似て非なるものであることを示す実例と見ます。
私にとって、神学校の聖書解釈の授業を中心に語り続けてきた、エイレナイオスの闘い、また今、現に私たちの直面している闘いの内実を理解するため、上記の実例はよい手掛かりとなります。そこで、以前に書いた文章を紹介します。
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新旧約聖書を貫く3本の柱
宮村武夫
「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです」(使徒の働き20章27節)
「最初の教父」とも呼ばれるエイレナイオス(生年は140年から150年の間とされる)を通して教えられた、「からだ」の大切さ、旧約聖書と新約聖書の一貫性と進展性、さらに旧新約聖書を一貫する3本の柱について報告いたします。これもまた、日本センド派遣会総主事・誰でも人間・私(真の自己・私理解)として歩む基本的姿勢を左右しています。
Ⅰコリント15章50節
エイレナイオスとの出会いは、開成高校聖書研究会でのキリストにある友人・吉枝兄に紹介された学びの場、日本クリスチャン・カレッジ(現東京基督教大学)と切り離せない。
1962年4月、吉枝兄に1年遅れて日本クリスチャン・カレッジを卒業。4年間の留学(ゴ-ドン神学院、ハーバード神学部)後、埼玉の寄居キリスト福音教会牧師に復職し、同時に1969年から母校で授業を担当。
最初に受け持った授業の1つは、「聖書解釈学」。聖書をどのように読むかの方法論を課題とするものでした。この授業を毎年続ける中で、年とともに聖書解釈の歴史に時間を割くようになったのです。
新旧約聖書を読み味わい、聴従してきた約2千年の教会の歴史の中で、自分が置かれている位置をしっかり確認し、その立場で与えられた責任にどのように応答していくかを課題としたのです。
この課題のため、注目すべき先達がエイレナイオスです。
「血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません」(Ⅰコリント15章50節)を口実に、エイレナイオスの論敵たちは主張します。「血肉のからだ」、つまり「からだ」は神の国を相続できない、救いの対象ではない。それゆえ「からだ」をどのように用いても救いに関係ないと、勝手気ままな生活に走ります。
全体から孤立した聖句を口実に、物質を悪と見、「からだ」を蔑視する考えを、あたかも聖書の教えであるかのように主張し、人々を惑わす論敵に、エイレナイオスは鋭く対決します。
そうです。エイレナイオスは、聖書を貫く3本の柱に注目し、聖書全体の雄大な展開を視野に入れながら、特定の聖句の意味を深く豊かにくみ取ります。
3本の柱
①天地の創造者と天地万物
創世記1章1節「初めに、神が天と地を創造した」。目に見えないものも見えるものも、その全体を創造者なる神が創造し、保持なさっているとエイレナイオスは強調。それ故、目に見える万物の全体が神の創造の御業であり、また救済の歴史にその場を与えられていると、雄大な広がりに信仰の目を開くのです。
②御子イエスの受肉の事実、真の神にして真の人
ヨハネ1章14節「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」。「子は受肉し、人となった時、人類の長い伝統を自分の中にまとめ、総括的に救いを私たちに与えた」(『異端駁論』第3巻18章1節)。「からだ」を含む人間の全体、その意味で真の人となられたのです。それは「からだ」を含む私たちの全存在が救いにあずかるため。
③からだを含む全人格・全人間
人間の「からだ」と魂、霊を分離してしまうのではない。「からだ」を含む全存在が、聖霊ご自身の導きのもとに導かれ、父なる神の意志を行い、キリストの新しさへと新たにされる。
孤立聖句主義と対立する、聖書全体を視野に入れつつその各部分を正しく、深く、豊かに味わい、解釈する責任と喜び。聖書全体というとき、旧約聖書と新約聖書の両方を視野に入れ、特にその2つの関係に注意する。
一粒の種、それが植えられ、10センチ、1メートル、10メートルの木となっても、同じ生ける存在として、互いの成長段階同士が矛盾することなどはない。同様に、聖書全体も1つの有機体として、相互に矛盾などしない。しかも1つの有機体として、旧約から新約への美しい進展を見る。特に主イエスの受肉と聖霊降臨を中心として。
全人類の歴史との関わりの中で、神の民の歴史、さらに天地万物を常に意識しつつ、神の民全体の歩みを視野に。参照「からだの贖(あがな)われること」(ローマ8章23節)。
使徒信条において、「罪の赦(ゆる)し」と「永遠(とこしえ)の生命(いのち)」の間に、「身体(からだ)のよみがえり」が位置していることの重大な意味。
このような雄大な救いの歴史のなかで、人間・私の小さな小さな歩みも見るべき。その時、この持ち場、立場で忍耐と希望に満たされて生きる使命の自覚とその遂行があるのです。
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