不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(32)
※ 前回「生ける者と死ねる者への裁き(その2)」から続く。
予定は未定だ
下げたくない頭も、折りたくない膝も、尽くしたくない手も、結果としてイエスにひれ伏すなら、それもありだというのが、聖書の教えるところであろう。人間はいくらでも「ふり」をすることはできる。それが本物かどうか、分かるといえば、分かるのであろうし、それが「ふり」であっても喜ぶ人はいる。
イエスはどうだろうか。人間が自分にひれ伏すことを喜ぶだろうか。そもそもひれ伏しを望んでいるふうでもないのだが。少なくとも求めているという感じはしない。
悪霊に取り憑(つ)かれたゲラサの男性、瀕死の娘がいたヤイロ、12年間病気に苦しんだ女性、この3人もまた、気が付けば膝を突いていたということであろう。前回に述べたように、自分ではどうにもならない状況の故にイエスの前に倒れ込んでいた、それがひれ伏しであったというのが本当のところではないか。
われわれ人間には、しばしばこういうことがあるのだ。礼儀うんぬんということではない。神の子イエス・キリストと出会う人間の一面なのだ。ひれ伏すという行為を、屈辱的だとか、あるいは、そこには何かしらの支配構造が隠されているとか、そういう見方はふさわしくないのだ。ひれ伏せる喜びもあると、某神父さんが言っていたのを思いだす。
イエスも、膝を折って自分の前にひれ伏す人に対して冷静ではなかったのかもしれない。少なくともイエスは足を止める。そしてイエスは、足を止めて何かをするにしても、何かを言うにしても、その瞬間はもともとどこに向かう「予定」であったことを忘れてしまっているように見える。
イエスは、急いでいるはずだが、急ぐことを目的にはしていない。その途上で足を止め、その時、その場所、その人に必要なことをなされるのだ。
ガリラヤ湖の東岸に行ったときも、その目的は悪霊に取り憑かれた人の救出だったわけでもなかろう。その先を目指していたはずなのに、彼を助けたら、180度回れ右してガリラヤに帰ってしまった。まるで使命は果たされたかのように、元の場所に帰るのだ。これもまた神の不思議というべきか。
眠っているだけさ
そうこうしているうちに、ヤイロの娘が死んだと知らせが届いた。出血病に悩まされていた女性の相手をしているうちに、死んでしまったということではない。それくらいの寄り道をしたから、少女が死んだと読み取ってはならない。そうではないのだ。
イエスが少女を助けるためにヤイロの家に向かっていたのに、命が尽きてしまったのだ。ヤイロの努力も報われなかったということである。努力のかいなくだ。これもまた、人間の世界ではしばしばあり得ることだ。精いっぱいの手立てを尽くそうとしたし、尽くしたのだけれども、どうにもならなかったのだ。ヤイロは会堂司(つかさ)であり、身分も名声もある人物だったのであろう。そういう人物であったとしても、やはり不幸は訪れるのだ。
ヤイロの家から来た人々は、「もう、先生を煩わすことはないでしょう」と言う。イエスに引き返せと言うのか。もう出番はないということか。しかし、イエスは足を止めない。そして、ヤイロに言う。「恐れることはない。ただ信じなさい」
これもまた、むちゃくちゃな言葉だ。ヤイロは「まさか娘を生き返らせるということか」と考えてしまうだろう。しかし、イエスは生き返らせるとは言わない。イエスは「子供は死んだのではない。眠っているのだ」と言う。
これは慰めの言葉ではない。肉体を去って、天において平安の眠りに就いたのだと言っているわけでもない。イエスは少女の死を認めないのだ。死ぬことを許さないのだ。たとえ生物学的には、死んでいるようにしか思えない状況であったとしても、イエスは少女の死の知らせを受け入れないのだ。死んではいない、眠っているのだと。
言いたいことは言った方がいいのだが
父であるヤイロが、娘の死を受け入れず、眠っているだけだと信じたい、そう願いたい、というのなら分かる。しかし、イエスはまるでヤイロの心を代弁するがごとく、「子供は死んだのではない。眠っているのだ」と宣言するのである。
そう、ヤイロは言えないのだ。言いたくても言えないのではないか。人間は生きもすれば、死にもする。それが道理だ。それを認めてこその大人である。でも、道理がなんだ。物分かりの良さが人生を救うのか。わが身に起こった不幸もまた神のなさることだと、素直に受け入れることが、人間のあるべき姿なのか。断じて違うのである。物分かりの良い、分別のある態度を求められる立場であったとしても、否は否である。
「わが子は死んでない。眠っているだけだ」と、そう口にすることをなぜ躊躇(ちゅうちょ)しなければならないのか。そんな道理があるものか、死を受け入れるというのは、簡単ではないのだ。イエスは足を止めない。なお、イエスはヤイロの家に向かっていく。
生を求める
生きているのか、死んでいるのか。それは、誰が決めるのか。医者か、科学か、常識か。あるいは現代社会の得意な定義というものか。私にはさっぱり分からない。24時間を経過してなお呼吸なく、脈拍なく、反応なくということか。確か、それが火葬の条件だったと思う。
生きているのか、死んでいるのか。それは、家族が決めるのか、周りが決めるのか。「眠っているだけだ」と思わずにはいられない、そういう悲しむ人々に諦めて死を受け入れるよう諭すのも、ある面で愛のある行為であることは知っている。また、それを口にするのは勇気が必要だ。
生きているのか、死んでいるのか、誰かが決めないといけないのは承知の上で、なお言い得ることがあるならば、いや、あるから大胆に述べよう。生ける者も死ねる者も結局、最終的には神が決めるのだ。
つまり、人間がなし得る死の宣告もまた仮置きに過ぎない。葬儀も埋葬もまた仮のものだ。終わりの前のちょっとした息抜きに過ぎないのだ。それは実につつましいものだ。やがて本当の意味で、生きているのか、死んでいるのかを神が決めるのだ。
死んではいない、眠っているだけだ。
死んではいない、肉体を失っただけだ。
死んではいない、陰府(よみ)にいるだけだ。
恐らく、われわれ人間に言い得ることは、このようなことに過ぎない。
イエスが死んでいないと言うなら、死んでいないのだ。確かにそれはむちゃくちゃな論理だ。そんなことを何にでも適応していたら、大変なことになる。
われわれに言えることがあるとすれば、たとえ肉体が停止しても、まだ終わりではないということだ。火葬され、埋葬され、肉体のほとんどを失ってしまっても、その気になればイエスには、この世においてさえ肉体の停止を終わらせ、その体に起きて歩けと命令もし、実際にその人は歩きもする。そういうことを、マルコ5章はわれわれに知らせているのだ。
イエスの裁きとは、そういうものなのだ。「はい、天国行き」「はい、地獄行き」という単純なものではない。むしろ、イエスはその時々において生死を自在に操るのだ。公式はない。気まぐれかもしれない。神であるので気まぐれもまた良しだ。
ただ、われわれ人間の側から言えることがあるとしたら、いずれ誰もが本当の意味で生きているのか、死んでいるのか、イエス・キリストによってはっきりさせられる時が来るということだ。その時、誰がどうなるのか、それはわれわれ人間が決めることではない。その時が来るということを自覚し、祈り続けるしかない。
イエスが死んだと言わない限り、その人は死んでいないことだけは事実なのだ。生を求める者は、徹底的に生を求めるのが正解だ。たとえ肉体が終わりを迎えても、それは恐らく一時の眠りに過ぎないのだから。(終わり)
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