不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(19)
神を呪って死んだらよいでしょうに
神を呪うほどの勇気なし。それは心優しきことなり。まさにトホホである。とはいえ、神を呪うにして、実際のところどうすればよいのか、さっぱり分からないのだ。例えば、友情を尽くした相手に裏切られ、財産やら家族やら大切なものをすべて失った人物がいたとして、その相手に呪いをかけるということはあり得るだろう。呪いをかけるというのは、宗教的な意味があるので、神あるいは悪魔に呪いを託すということだ。ところが、神ご自身を呪うとなれば、その呪いを神に託すということにはいかない。悪魔に神への呪いを依頼するといっても、実のところ、われわれは悪魔よりも神の方が力も知恵も勝っていると思っている。そう考えているから「神」なのだ。だから神を呪うというのは実は難しいのだ。
ヨブの妻は苦しみの中にいる夫に告げる。「神を呪って死んだらよいでしょうに」。何ともやるせない言葉であると思うのか、あるいは励ましの言葉と思うのか、意見は分かれると思う。神を呪うというのは、もちろん良くないことなので、その報いとして「死」を招くかもしれない。素直にそうだろうと思う。いっそ死んだ方がマシだと思うほどの苦痛の中にいるなら、どうせ死ぬなら神を呪った方がすっきりするかもしれない。とはいえ、神を呪ったまま死んでいった人というのは伝え聞くことはあっても、神を呪った末に死んだという人に今まで出会ったことはない。実のところ、どうなのだろうかと思ったりする。それが人間の本音であると言われても、確かによく分からないのだ。
ヨブは何者であるか
ヨブは、東の国のすべての人々の中で一番の富豪であったという。男7人、女3人の子どもがおり、財産として羊7千、らくだ3千、牛1500、雌ろば500を所有し、他に大勢の僕(しもべ)を抱えていた。つまり、国王級の人物ということだ。子どもたちのために祝宴を惜しみなく設け、また、子どもたちのために清めの祈りをしていた。焼き尽くすささげものをささげながらも、じつはこのように語っていたというのだ。「わたしの息子たちは罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」。これがヨブの生涯で繰り返されたことであると聖書は語るのである。
筆者からすると、何ともやるせない。子どもたちが犯したかもしれない罪、子どもたちが神を呪っているかもしれないという不安を親が抱いているのだ。それは親としての優しさであり、神への誠実さであるといえば、そうかもしれない。が、しかしである。どうも引っかかるではないか。どうもヨブはネガティブ思考だなと思う。東方一番の大富豪にしては、「何か小さくねぇか」と首をひねってしまう。とはいえ、ヨブ記ではそのような姿について神はこう語る。「あのような男は地上に二人といない。彼は非の打ち所がなく、正しい男で、神を畏れ、悪を遠ざけている」。神がそのようにお語りになるのであるなら、それ以上何も言えないが・・・。この神の言葉は実のところ、神とサタンの会話でなされたものである。であるから、ヨブは神の彼に対する評価を知らない。サタンという不思議な存在は、われわれよりも言葉がうまい。サタンは神に物申すのである。「ヨブは利益もないのに神を畏れるでしょうか」と。
さすがのサタンは物申す
あー、サタンは余計なことを言ってしまった。もちろん、われわれ人間としてもついサタンに共感してしまう面がある。まして東方一番の大富豪たるヨブに関して、サタンのようにズバッと物申してはみたい。それでも相手が神であるわけだ。神ご自身が「彼は非の打ち所がない」と言うのであれば、サタンが口にしたような大それた考えは、われわれであればゴクッと飲み込むしかないわけ。さすがサタン!よくぞ言ってくれました!と、拍手喝采ということになる。つまり、ヨブへの嫉妬のなせる業なのだ。
もちろん、サタンに共感しない人はものすごく多いと思う。神とのやりとりの結果、サタンはヨブについて神から任され、彼の財産や子どもの命を奪ってしまう(ヨブ記1章13節以下参照のこと)。実のところ、神がそのようにしたわけではない。サタンが奪ったのである。神はただサタンに任せただけである。げに恐ろしきはサタンなのだ。だからサタンはサタンなのだが。
とにかく、ヨブは生涯で手にしたものを失ってしまった。しかし、その知らせを聞いたヨブはこのように言う。「わたしは裸で母の胎を出た。裸で、そこに帰ろう。主が与え、主がお取りになった。主の名は祝されますように」。有名な言葉である。解説など不要である。ただし、念のためもう一度書いておくが、奪ったのはサタンである。神ではない。だがその事実を、ヨブも、さらにいえば、今も少なからず苦難の中にいるわれわれも知りようがないのだ。そこにこそ人間の人間たる悲しさがあるではあるが・・・。(続く)
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