不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(4)
東側は過酷である
中東アジアにおいて東風は熱く乾燥したものであり、命に危機をもたらす(旧約聖書のヨナ書など参照)。つまり、東の方角はあまりよろしくないということになる。「毒リンゴ事件」の後、神はアダムとエバをエデンの園から追い出して、その方角にケルビムときらめく剣の炎を置かれた。つまり、ここに帰ってこられないように神はフタをしたわけである。
さて「毒リンゴ事件」の際、神はアダムに厳しい未来を描いて見せた。「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ」(創世記3:17)と。アダムたちは今まで苦労なくエデンで食っちゃ寝の生活だったわけだが、これからはそういうわけにはイカンということである。「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」とは、いささか不思議な表現ではある。土、つまり大地ということだが、これは大地が被害者になったとも読める。そのように読めるから環境問題に取り組んでいるキリスト教徒は好んでこの節を取り上げる。大地は時として人間の過ちによって被害者となるのだ。この点においては同意する。というか、あまりにも自明のことなので。自然は自然を汚染しない。するのは人間だからだ。
ここで私が注目したいのは後半の部分である。「お前は食うために苦労するんだ」と神から宣言されている点を十分に考えねばなるまい。19節にもこのように書かれている。「お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵(ちり)にすぎないお前は塵に返る」。まさにオーマイガットな言われようだ。土に帰るとは死ぬことを意味するのではあるが、ここでいう神の言葉にはある種の厳しさがある。もともとお前は塵にすぎないから死んだら塵に返るまでのことだ、と言うのだ。あー、ここまで言われるのはいかにもしんどい。そこまで神は恐ろしく怒っておられるのである。
エデンを出たら双子の誕生
さて、かなり救われようもない状況でエデンを追放された二人であるが――その時には二人の裸性を隠す道具として神は皮の衣を与えているが(21節)、これも実は意味深い――、聖書はお上品にも追放後にアダムはエバを「知った」と告げている。その結果としてエバは身ごもるのである。聖書ではしばしばこういう表現がなされるわけで、この場合「知る」というのは、肉体的な交わりにとどまらず人格的な深い関係も含まれると解説されたりするのであるが、まあ、そこも含めて知ったのだと筆者も上品な表現に同意しよう。
そして、エバは双子を出産する。それがカインとアベルである。カインという名前は、手に入れるという言葉から(「わたしは主によって男子を得た」というエバの言葉によって)語呂合わせ的に付けられた名前らしいが、言語学的には大工に関係した何かを意味しているらしい(『新聖書大辞典』キリスト新聞社、1971年)。ちなみに、イエス・キリストは大工の家に生まれ、自身もその仕事に従事していたようである。この点も実は関連付けができるであろうか、なかろうか(実際、イエス・キリスト自身はアダムたちの過ちを洗い流した新しい人間の先駆者、第二のアダムと呼ばれたりもする)。
次にアベルは、息あるいは蒸気(コヘレトは「空しさ」として表現している)に関連する名前であるらしい。アベルはこの後、カインに殺されるので、まさに息つく暇もなく生涯を終えるのである。また、このように言い得るかもしれない。アベルは自分が飼っていた羊の中から肥えた初子をささげている。これは最上のものを神にささげたわけで、善人とはいわないが良人であったにもかかわらず、兄によって殺されるという不条理を負わされる。落ち度なく生きている人がひどい目に遭わされるという無情を象徴している名前である。
カインとアダムの仕事
というわけで、この兄弟は、一方は土を耕す者(カイン)として、もう一方は羊を飼う者(アベル)として人生を営んでいく。アダムによって土は呪いにさらされているにもかかわらず、兄カインはその仕事を引き受けたのである。汗を流してパンを得るのだ。弟アベルの羊を飼うという営みもまた土に関係はしているが、羊はどんな草をも食べることができるので、土を耕して作物を得ることに比べれば容易だったかもしれない。農耕は牧畜に優るものだと思われがちだが、実は違うのではないかという主張もある。農耕とは土地に縛られ、しばしば天候にも左右される不自由極まりない生き方だともいえる。
とはいえ、羊を飼う場合に必要となる土地は農耕に比べれば莫大な面積が必要にはなる。通常、カインとアベルの比較を農耕民と狩猟民、あるいは半狩猟民的な牧畜業と対比させて読み込むのであるが、まさかカインがアベルを殺した出来事から狩猟民に対する農耕民の優位性を語るとか、ここにユダヤ民族の営みが狩猟的なものから農耕的なものに変わった事情が述べられているとか、そのような意図はなかろうと思うのである。
今回の主要テーマは、カインがアダムの罪によって呪われた大地を耕す者となったということだ。大抵の文化は農耕と狩猟・牧畜は共存しているのだ。そんなことは当たり前のことで、自分の国の有り様を見れば分かる。農耕が牧畜に優るなどという価値観と聖書は関係ないのだ。人間の営みそれ自体はいかようなものでも美しいのだ。
双子が神に供え物
で、ここからが論点であるが、カインはその父アダムの悪行?によって呪われた大地を耕して何とか命をつなぐ。こりゃかなりしんどい。一方、アベルは草が生えていれば羊は育つのであって、そのための広大な土地が必要であったとしても、かなり牧歌的なやり方で命をつなぐことができる。ただし牧畜はリスキーでもある。そもそも羊が育たなければかなりヤバイ商売だ。疫病の心配は常に存在している。
そういう二人であるが、ある日、神にささげ物を携えてくる。前述したように、アベルのささげ物は特上品である。カインのささげ物には特に言及はない。言及がないから、カインが惜しんで良くない物を持ってきたというわけでもないだろう。特上品ではなかったということだ。そもそもカインが引き継いだ大地は父の悪行?によって呪われているのだから、特上品を望むべきでなかったと同情すべきなのだ。とにかく二人は神にささげ物をしたのである。
野本真也先生のコメント
では、神はどのように二人に相対したのかといえば、アベルのささげ物には目を留めたが、カインのささげ物には目を留めなかったのである。目を留めるというのは、要するにお気に召すということであろう。この点に関して野本真也先生は、「アベルという名前が象徴している無意味や無価値のようにみなされている存在、蔑視されている者、無価値な者、不利で弱い立場に置かれている者、小さい者などを選び、愛しているのではないか」(『新共同訳 旧約聖書註解(1)』32ページ、日本基督教団出版局、1996年)と問い掛けている。つまり、読者にとってアベルという名前を付けられた弟の存在は、最初から特別な意味を持っていたということになる。
カインにも言い分はあるのだ
野本説に立つならば、小さき存在が精いっぱいのささげ物を持ってきたことに神は目を留めたということになる。カインは「親の因果が子に祟(たた)る」ではないが、これもまた呪われた地で汗を流して得たものであったが神はお気に召さない。何とも不遇なことである。しかし、ある意味でそれはアダムたちの因果であるから十分に予想されたことでもある。
ここで、われわれは問うことにしよう。果たして神は双子のささげ物を並べて、いわゆる選別をしたと考えるべきだろうか。神には、両者のものを等しく目に留める余地はなかったのか。この問いは読者にとってはしごく当たり前に浮かんでくる疑問であろう。神は人間からささげられたものを並べて見比べる方なのか、そしてより良き方に目を留める方なのか、という素朴な疑問である。このことに関しては残念ながら聖書は答えていない。そもそも、そういうことに関心がないのかもしれない。結果として生じた事柄、つまりこの神の対応の違いによって生じてしまったカインの心の動揺、「激しく怒って顔を伏せた」という事実があるのみなのだ。
せっかく持ってきたささげ物に目を留めてもらえないというこの理不尽の中に、カインは怒りを感じるのである。そりゃまあそうだろうと思うわけである。カインには落ち度があったとはいえない。なにせ大地はすでに父の悪行?によって呪われているのだから、とりわけ上等な産物を生み出さないのだ。それでもカインは、その中から神の前に産物を差し出したのだ。それがカインの、そして人間全般の言い分である。
われわれには怒る権利があるのか、ないのか
われわれは困難な中で頑張っているのだ。その証拠がこのささげ物なのだ。これにあなたが目を留められない理由が知りたい。このようにカインの心も、そしてわれわれの心も怒りに満たされるのだ。なぜ神はわれわれの奉仕(一生懸命生きるということも含めて)に対して、それ相応の反応を示してくれないのか。われわれは怒るのだ。その怒りは神に対してか、自分に対してか。そもそも人間は神に怒ってよいのか。人間には神に怒る権利があるのか、ないのか。恐らくないのであろう。だからその怒りを、カインは弟のアベルに転嫁しないではいられない。これはもうアリアリの人間心理だ。いかにもどこにもありそうな人間の苦悩だ。だから神は言う。「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」(創世記4:7)。言い分があれば人間は何をしてもよいというわけではない。今、カインには怒りがある。そして怒りは時として不幸を引き起こすのだ。(続く)
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