昨日、報道された筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者の死亡事件については、今の段階では嘱託殺人であり、医療処置ではないと考えます。
ALSは神経系の病気で、呼吸機能を含めた全身の運動機能が徐々に失われていく病気です。発症から呼吸機能停止までは数年間のスパンがあります。ALSに対する医療知識の蓄積は相当進んでいますので、どのように経過していくのか、どういう対処ができるのか、その点については医療として多くの情報を患者に提供できます。
ALS患者の生活の支援方法や対処についても、医療、看護、介護の面からサポートされます。当然、患者の意志が無視されることもありませんし、治療とどういう最期を迎えるのかについても、患者やその家族に考える時間、機会が与えられています。主治医はもちろん、ケースワーカー、ケアマネージャーとも話す機会がたくさん設けられます。人工呼吸器を装着しないと決断した患者であっても、その決定は途中で変更可能です。ただし、人工呼吸器を装着してしまった場合、それを外して死を選ぶことは大変に難しいといわざるを得ません。この点は、報道の指摘通りだと思います。
しかし、ここで考えるべきことは、呼吸器を装着して生きるのは、ただ「残酷な生」であるという思い込みは厳禁だということです。患者が速やかな死を望んだ場合――それはしばしば起こり得ることですが――、主治医を中心とした話し合いが必要です。患者と家族、支援者を含めたケアチームが作られていますから、その話し合いが尊重されるべきです。そこに第三者が口を挟む、あるいは何らかの行為介入をすることは、医療倫理に反することです。これは日本の場合だけに限らず、世界的にこのように行われていることですし、この方法は医療が見いだした現時点における最善策です。
さらに指摘したいことは、「安楽」な死はないということです。死は安楽ではありません。死が安楽を提供するかどうかも現時点では結論を出せません。われわれが議論できるのは、尊厳ある死を考えることです。そして尊厳ある死は、個々人によってまったく姿が違うということも大切です。泣き叫びながら死を迎えることも、ある人にとっては尊厳ある死であって、その権利はあります。
今回の事例は不明な点が多いですが、報道されていないことがあります。それは、患者と主治医の関係がどうであったのか、ケア会議がうまく機能していたのか、第三者たる2人の医師の関わりがどうであったのか、SNSでのやりとりもケアではありますが、しかしそれが「どうやって死ぬか」という点に限られていたとしたら、それはケアではありません。個々人の死について対話がなされるときは、同時に個々人の生についても対話されるべきです。
ALSに罹患した人がどのように生きていけるか、その知識の蓄積は相当に進んでいます。方法も確立されてきました。何よりもALSの治療法が相当に進歩しているのです。そういうポジティブな点を抜きにして議論することはできない、ということを記しておきます。
文・藤崎裕之(元医療従事者、牧師)