死には向き合わざるを得ない
人が死ぬというのは本当だろうか――。われわれは時にそう考えることがある。家族や知人の死に直面すれば、死を実感することはある。もちろん、自分がいずれ死ぬ存在であることは分かっているのだが、自分が本当に死ぬときが来るという事実については、なかなか実感をもって受け入れられない。
それはキリスト教においても同じである。キリスト教の救いというのは、不死を意味するものではないが、死んでも天国へ迎え入れられるのは当然として、その先にはいつの日か体のよみがえりがあると信じている。そんなに信仰熱心なわけではないとしても、それがキリスト教の教えであるから、そこに望みを置いているのだ。当然のことだが、天国も体のよみがえりも漠然とした概念であり、決して実証的なものではない。それが宗教であり、仏教の六道輪廻にしろ、キリスト教のパラダイスにしろ、具体的なものは示しようがないのだ。
私は臨死体験に興味があり、当事者の手記などを読むのが好きである。臨死の瞬間は、ふんわりとした聖なる光に包まれてとても穏やかなのだそうだ。また臨死の際に自分の遺体を囲んで泣いている人々の姿を見たり声を聞いたりするのであるが、それでも悲しいとか苦しいとかそういう気持ちではなく、とても穏やかなのだそうだ。臨死体験を心理学的に解説するのは可能であろうが、悪趣味だと思う。聖なる光に包まれて心穏やかな世界が死の向こう側にあるというなら、これほどありがたいものはないのである。臨死体験そのものが人を不幸にするという話は聞いたことがない。ただし、臨死体験を利用して擬似宗教化し、何かあくどいことを企む人々もいるようであるから要注意ではある。
ただ確実なことは、どんなに多くの臨死体験者がいて、その体験談をどれほど多く聞いたとしても、またその話を聞いて、その時々は束の間の安心感を得たとしても、死そのものも、死に対するわれわれの否定的な感情も、緩和されたり、解消されたりすることはないのだ。死とは何事であろうかと人間は問うてきたし、これからも問い続けるのである。死は単なる生物現象というわけではなく、特に人間にとって死に至る過程にこそ苦悩がある。普通に死という現象を考えたり、死に触れたりしていれば、人間は考え込んだり不愉快になったり、時には病的な状態に置かれたりする。生まれたときから「死」という現象に苦悶(くもん)するのが人間なのかもしれないし、そのこと自体を弱いとか情けないなどと言うことはできない。むしろ当たり前のこととして向き合うしかないのだ。
宗教は善意である
死は不条理なのだ。どれほどの人たちが気の利いた死生論を展開したとしても、自分自身の死は不条理なままである。私が死ぬということ、それがどういうことであるのかを知ることは不可能なのだ。なぜかといえば、誰も死を経験していないからだ。臨死体験もそれはあくまでも、死んでいたかもしれない状態の体験という程度であって、確実に死んだ人間が行った先からレポートしてくれない限り、死の向こう側の世界については無知に等しいのだ。
このように死後の世界とは無知に等しい世界であるが、また、宗教は人間の産物であって、それは希望的観測が込められた虚構であると言っていただいても結構だ。それでも宗教というのは、死を超越した何ものか――われわれキリスト教徒なら創造主、あるいは救世主と呼ぶのであるが――からの人間として生きるわれわれへの「便り」を取り次ぐことを使命としている。また逆に言えば、宗教はわれわれ人間側の祈りを神へ取り次ぐものでもある。神は受け取り証明を出さないので、人間側の言葉を確かにお伝えしたと断言できないのであるが、届くことを前提として宗教は営まれるのである。届いていないと思いながら宗教が営まれているとしたら、それはすこぶる「アホ」だとしか言いようがない。そんな失礼なことを宗教は前提にしないはず。
そういう意味で宗教は善意である。キリスト教も善意である。教会は、キリストによって人間は救われるということをこの世界に向かって宣言し、同時に信仰を持った人たちが集まって支え合いながら人生を過ごす場所なのだ。問題があったとしても、それは悪意によるものではなく、善意でありながらも、問題を抱えているということにすぎない。
自己と他者のケアとして取り組んでいく
ケアとは治療ではない。根本解決ではない。また、スピリチュアリティーとは精神を超えた何かである。しかし、ここではあえて精神と呼ぼう。精神は理性を含めるとしてもそれだけではない。精神は知恵の産物でもないし、知性に支えられるとしても、知性によって生まれたり滅んだりするものではない。しかし、人間の精神はしばしば痛むのである。傷つきボロボロになるのである。弱いといえば弱いし、それが他者への愛に向けられたときには強くもなる。ここでの問題はあくまで自己の精神である。自己の死を考え、それに立ち向かう精神である。逆に言えば、生きるためのそれでもある。傷つきボロボロになってしまうものを、治療はできないとしてもケアはできる。それが自己のものであっても他者のものであっても、ケアはできるのである。
ケアとは気遣いを超えたものであり、臨死体験までとはいわないが、ケアを受けるというのは、聖なる光に穏やかに包まれるような経験である。重荷からの解放である。それが永続しなくてもよい。一時的な解放であっても大事なのだ。温かい蒸しタオルを想像されたらよかろう。顔に被せられた蒸しタオルは気持ち良い。しかし、しばらくしたら冷えて快感を失ってしまう。だからといって、蒸しタオルは不要にはならない。スピリチュアルケアとはそういうものだ。それをこれからキリスト教の側から考えたり、提示したりするのが私の目的だ。われわれ人間にとって避けられない自己の死という不条理を、キリスト教の何事かにおいてケアしたいと考えるのである。
不可知の光とは臨死体験者が経験したものとは違う。不可知の光とは神であり、キリストである。治療ではないから、不可知の光をいくら語っても教えても根本解決はできないし、するつもりはない。それでも自己の生死において神を精神的に観たり想(おも)ったりすることで、「死」の魔術から少しは解放されるのではないか。それを私は「中和」と表現したい。とにかく生き続けていくためには、苦悩する自己を死に続けていくしかないのであるが、つまり今日とは違う何ものかに再生されねばならないのである。それが生物的にであろうと、精神的にであろうと何でもよいのだ。精神は体の産物かもしれないから、そのように語るのだが、不可知の光によって、しばし人間が全人的に再生され、明日を肯定的に生きるために――それはもちろん私自身の課題でもある――、たとえ少数であっても私の提示することによってケアされる人がいるなら幸いである。これから私は、善意をもって神を語り、また人間を語りながら、自己と他者へのケアに取り組んでいこうと思うのである。
※ 序論(その2)はこちら。
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