「教会と地域福祉」フォーラム21の第4回シンポジウム(キリスト新聞社主催、東京基督教大学共立基督教研究所共催)が19日、日本基督教団霊南坂教会(東京都港区)で開催された。「死生学と教会~より良く生きるために」をテーマに、死を見つめることで、自身の命や生き方を問い直し、より良い生を見いだす支援を教会がどのように行っていけるか、参加者と共に考えた。
フォーラム21ではこれまで、「教会と地域福祉」を日本の重要な宣教課題として掲げ、高齢者福祉、児童福祉、精神保健福祉をテーマにシンポジウムを行ってきた。今回は、「死」をテーマの中心に置き、子どもを亡くした親の会である「ちいさな風の会」の世話人で、立教女学院短期大学学長の若林一美氏を基調講演者に招いた。若林氏は、遺族や重い病を負った人たちと長年にわたって接してきた経験から、愛する人と死別した人たちにどう向き合っていくことができるのか、また信仰者として何を見るべきかを語った。
まだがんが不治の病とされていた頃、人々がなす術なくがんで死んでいく中、若林氏は自分も何かできないかと勉強を始めた。そして、米ミネソタ大学の「死の教育と研究センター」に研究員として留学。そこで、「死は始まりの時」であり、大切な人が死んでも、自分は生き続けなければならないことが最もつらく、苦しいことだと学んだという。
1970年代半ばから、末期の状態にある人やその家族、遺族の話を聞く活動をしてきた若林氏は、88年に「ちいさな風の会」を立ち上げた。当時の日本には、死別体験者のサポートグループなどはなく、若林氏はその道のパイオニアといえる。そこに集う人たちを通して、「悲しみは比べられるものではなく、その人の人生そのもの。同じような体験をしていても、悲しみは人それぞれ違うと思った」という。そして、自分のスケールで相手に向かって発する慰めの言葉は、決して慰めにはならないとも語った。
また、ニューヨーク・ブルックリンの病院のターミナルケアで、がんを患う夫の妻が、夫婦の性の問題について話すのを聞き、「病気なのにこんなことを訴えるなんておかしい」という気持ちがどうしても拭いきれず、ある看護師にそれを伝えた経験を語った。その看護師は若林氏に、「死にそうな人だってごく普通の人間なんですよ」と話したという。「末期のがんであれ、どんな望みを持ったとしてもそれは本人の自由。病気なのにそんなことを望むのはおかしいと周りが決めることではない」と若林氏。「病気だ」という色眼鏡を外し、一人の「人」として接していくことの大切さを訴えた。
また、英国の施設で亡くなったある老女が、「あなたは私を見ていない。もっとよく心を寄せて私のことを見てください」と、メモに書き残していたことを紹介した。若林氏は、「『死をみる』というのは、『死を看取る』ではなく、その人とどう共に生きるかということ」だと言う。「こういうことが、地域や教会の中で感性となって培われていくのが大事」と、教会のなすべき役割を伝えた。
若林氏の基調講演を受けて、シンポジウムのコーディネーターを務めた東京基督教大学大学院教授の稲垣久和氏は、「教会は、キリストの霊の働きによってできる有機的な愛のコミュニティー」だと言い、教会がするべきことは、上から下へキリスト教を押し付けるのではなく、横から「寄り添う」行為だと話した。そして、「地域福祉の主流が住宅支援になっていく中で、教会の担うスピリチュアルケアが、看取りや死を迎える人々の心の拠り所となれるか、新たな挑戦が始まっている」と述べた。
基調講演後は、ゲストとして招かれた3人の講師が各分野から提言した。早稲田大学名誉教授の木村利人氏は、死を知ることはより良く生きることであり、「死生学」が今を良く生きるための学問として展開されていることはとても大切だと語った。また、教会の可能性は、祈り、祈られることにより人が変わることだと言い、教会が祈りの共同体となって、それぞれが豊かに生きるために支え合うことができると話した。一方で、教会が地域のコミュニティーから遠い存在になってしまっていることが多く、在宅ホスピスなどを教会がどう支えていけるかという問題もあると指摘した。
ルーテル学院大学学長の江藤直純氏は、「ちまたの実践死生学」として、東日本大震災の被災者に対する仏教者の姿から学んだことや、ノルウェーでの体験、また自身の父の死の体験から、死と向き合う人たちに教会が何をできるかについて話した。その中で江藤氏は、教会が積極的に葬式を引き受けていくことを提案した。日本社会では結婚式に教会が関わることが認知されており、それと同様に葬式にも教会が関わっていくことで、死へと向かい合いながらこの世の生を全うするプロセスに、牧師や教会が関わることが可能になるのではないかと話した。
東京基督教大学助教の篠原基章氏は、教会のミッションと地域との関わりについて話した。篠原氏は、ミッションとは神によって派遣されることで、教会もその地域に神より遣わされている存在であり、その使命に生きることで「真の教会」になると説明した。また、日本の教会は、自己の役割について過小評価してはいないかと問い掛けた。そして、地域教会としてその地域に遣わされているのであれば、その地域と具体的に関わることで、教会へ対する信頼が生まれると言い、「教会は眠れる巨人であってはならない」と強調した。
各講師による提言の後には、講師と一般の参加者によるグループ討議も行われ、そこでも「死」を通しての教会の役割や未来について多くの意見が交わされた。討議後のまとめでは、日本社会とキリスト教では、死の捉え方や、遺族との関わり方などに違いがあることが浮き彫りになった。一方で、教会がその地域で果たせる役割はまだ多くあるとし、今後の展望についての対話もできたことが報告された。
次回の第5回シンポジウムは、来年3月に予定されている。