日本ルーテル神学校のデール・パストラル・センター(DPC)が主催する第2回デール記念講演「魂への配慮の共同体・教会」が1日、日本福音ルーテル東京教会(東京都新宿区)で行われた。説教・牧会についての多くの著書・訳書があり、牧師の養成・教育や、説教者の研修指導に当たっている加藤常昭牧師(日本基督教団隠退牧師)が講演した。加藤牧師は、自身のこれまでの経験を踏まえて、教会の本質、宣教の在り方について話し、「教会が慰めの場であるためには、牧師がいのちある聖書の言葉を説教し、信徒一人一人が日常の会話の中でキリストの恵みを口にすることが大切である」と語った。
主催のDPCは、教会を力づけ、牧師の牧会力を高め、信徒の霊性を養うことを目的に昨年設立された。今回は、愛する者を喪失したり、人生の挫折を体験したりするなどして悲しむ魂に、神の慰めと癒やしが働き、その恵みに生かされる交わりを保つためには、教会がどうあるべきかを考える時を持った。牧会学の中でも、特に説教学、実践神学から始まる牧会を大切にしてきたという加藤牧師は、この問題について、日本の教会はもっと関心を持って良いと考えていると言い、自身が大きな影響を受けたドイツの実践神学者、エードゥアルト・トゥルンアイゼンの研究と絡めて、幾つかの問題提起をした。
第一の問題提起は、「魂への配慮に生きる教会を問う」。教会にこそ慰めがあると話す加藤牧師は、日本の教会はキリスト者の共同体であることができているだろうか、「教会とは私のことである」という意識が一人一人にあるだろうか、と問い掛けた。加藤牧師は、日本では教会というと、教会堂やそこにいる牧師をイメージする人が多く、そこに集うキリスト者が隠れてしまっているように思うという。しかし、実践神学が問うているのは、「教会の実践」であって「牧師の実践」ではない。また、トゥルンアイゼンは、魂への配慮こそ万人祭司の実現だと考え、それは牧師だけによるのではなく、キリスト者の共同体としての教会によってなされるべきだと著書の中で述べているという。
第二の問題提起は、「魂への配慮の対話は既に説教において始まるのではないか」。ここでは、トゥルンアイゼンが、牧会を何よりも二人きりの対話と捉えていたことを指摘し、説教が牧師にとっての福音宣教の具体的な場となっているかを問い掛けた。今日の日本の教会が厳しい伝道の行き詰まりにあると考える加藤牧師は、その理由の一つに、説教が定型化して力を失っていることを挙げる。教派を超えて講解説教が広く一般化したことで、聖書に忠実で正確な説教がなされるようになった一方、聖書のいのちある言葉を、今ここで聴くべき神の言葉として伝えることに成功していないのではないか。それは、新約聖書の説教が、手紙という形式を取り、聴き手の魂への配慮、慰めの言葉を含んだ対話を成り立たせていたことからも理解できると話した。
第三の問題提起は、「今、魂への配慮とは何をするのか」。魂への配慮の実践が具体的にどのようなものであるのかについて、加藤牧師は、ドイツの実践神学者クリスティアン・メラーが、その著書『魂への配慮の歴史』の中で触れている、カトリック教会における「告解」に目を留める。罪を告白し、赦(ゆる)しを与える懺悔(ざんげ)という行為が、カトリックのキリスト者に対する魂の配慮の現れとなっており、この行為は、ルター派教会でも大きな役割を果たしてきた歴史があるという。加藤牧師自身、ドイツ滞在中に、何度も主の赦しを祈り求めてほしいと頼まれ、悔い改めの対話を交わしたことがあるという。その経験から、日本のプロテスタント教会ではこのような「慰めの対話」が視野に入っていただろうかと問うた。そして、第一の問題提起と合わせて、キリスト者一人一人が、信仰の言葉、慰めの言葉を自分のものとして手に入れることが求められると言い、話を結んだ。
DPCの石居基夫所長は最後に、「慰めを必要としている魂は、近くにある。慰めの言葉を掛ける者として、私たち一人一人が神に招かれていることを教えられました」と語った。