不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(6)
※ 前回「エデンの東 終日のたり のたりかな(その2)」から続く。
アベルは土の中から叫ぶ
人間は神から諭しを受けている。神は時に人間を用いて、あるいは書物を用いて人間に諭しを与える。神が諭しを与えるのは、われわれが怒りに支配されている場合が多いのではないだろうか。また悲しみの中にいるなら、それは諭しではなく慰めというべきか。とにかく、われわれはさまざまな手段によって神からメッセージを受けているはずなのだ。だからわれわれは宗教的なのである、ともいえる。諭しを受けているなら自らの行動を変えればよいのであるが、それができなかったという意味でカインは残念でもある。
同じようにわれわれは過ちを犯す存在であって、その結果に気付くとき、その事実に愕然(がくぜん)とする。ただし気付くという事柄について、われわれ人間には欠点がある。要するに気付けないのだ。カインはアベルを殺した。神はカインに言う。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」と。土の中からという表現は、そこがいわゆる陰府(よみ)の世界であるという人間の共通意識に根ざしている。大げさな言い方をすれば、アベルは最初に陰府に下った人間といえるかもしれない。何にしろそれは、人生をまっとうしたとか、神の御許に上げられたとか、そういう話ではない。あっという間に命が尽きてしまったのだ。神の言葉がなければ、カインはその事実さえも知らなかったであろう。ここにこそカイン自身の問題があるのだ。
神は怒っているのである
神はアベルの死を嘆いているのである。アベルの血が叫んでいるのである。この事実をカインと同様に知らねばならない。死とはそういうものである。特にアベルのような死に方に対する神の心の痛みを知らねばならない。でなければ聖書はわれわれにとって何の値打ちもないのである。神はアベルの血が土の中から「わたし」に向かって叫んでいるとはっきり伝えているではないか。神は怒っているのである。「何ということをしたのか」と。
さらに神はカインに告げる。「今、お前は呪われる者となった。・・・土を耕して、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる」と。神の審判が下されたのである。アダムの不始末は地の呪いまでであったが、それも手に汗を流して何とか頑張れば作物を得られる程度の罰だった。しかしカインの罪は「自身の呪い」となり、もはや地を耕すことにさえ希望を持てない人生となる。その時にカインは気付くのである。「わたしの罪は重すぎて負いきれません」(創世記4:13)。後悔先に立たず、である。どれほど多くの人間がカインと同じ後悔を繰り返したことであろうか。人間とはもはやこの程度のものにすぎないのか。罪を犯した後はさすらいだけが人生なのか。
さらにカインは言う。「わたしに出会うものはだれであれ、わたしを殺すでしょう」。カインは恐怖を感じているのである。これは反省ではない。後悔であっても反省ではない。この後に及んでなお自分の命を心配しているのだ。殺人を犯すほどの人間であっても自らの命を気遣うのだ。そんなことは当たり前である。それはそれでよいのだ。
エデンの東、その顛末(てんまつ)
エデンの東の出来事について最後の引用をしよう。「主はカインに言われた。『いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐(ふくしゅう)を受けるであろう。』 主はカインに出会う者がだれでも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ」(創世記4:15〜16)。
神は不思議なことをされる。弟殺しの兄カインはしるしを与えられる。誰もカインを撃つことができなくなる神のしるしである。それは殺人者のしるしであるが、殺人者を殺人できないように守るしるしでもある。神はカインを赦(ゆる)すわけではないし、カインを守るわけでもない。「カインに出会う者」がカインを殺さない「しるし」を与えたのである。なぜならばカインを殺す者を神は7倍の復讐で報いるのだから。カイン1人を殺せば、その代わりに神は7人を殺すというのだ。
恐ろしいほどの不合理な宣言である。この不合理な神にわれわれは出会うのである。これをカインに対する慈悲と読み込むのか、それとも神の恐ろしさと読み込むのか、それは自由であるが、私は神の思いは底知れぬと思う。アベルの死を悲しむ神は、カインの命を惜しむ神でもある。なぜ諭しを無視して殺人に及んだカインを神は惜しむのか。神のその思いはまったく底知れぬと思うのである。
顛末は神の不思議で終わる
もちろん、われわれはこの事実を忘れてはならない。神がカインの命を惜しんだといえども、カインは神の前から去らねばならない。家族から引き離されるのである。その程度の罰なのかと思ってはならない。それほどの罰なのだ。それ故にわれわれは自分自身の命について深く考えるのである。神にとってはカインの命もまた惜しまれる命であるが、彼の人生は死を迎えるその日までさすらうのである。殺人者など死ねばよいのにとわれわれは心に思うのであるが、カインは死なずにさすらうのである。
そのさすらいをわれわれも引き継いでいるのであるが、それでもわれわれは自分自身に述べることができるものがあるとしたら、それは「神は殺人者の命をも惜しむ不思議な方である」ということだ。最初の殺人者カインは、神から惜しまれた命を生きる。やがてカインは家族を得てエデンの東で人生を送る。結果としてカインの生涯は、「エデンの東 終日(ひねもす)のたり のたりかな」(エデンの東で一日中、行ったり、来たり)である。私にはこの事実の方が神の不思議よりもなおいっそう不思議である。カインの命の果てはどこまでつながっているのだろうか。答えがあるとしたら、それはわれわれ自身の人生の中にあるのかもしれない。われわれはカインの末裔(まつえい)として人生をさすらうのか、あるいは、もっと違う何かとして確固たる命を生きるのか。それはつまり神の民(キリストの友)として生きるということに、その答えは秘められているのかもしれない。(終わり)
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