不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(3)
※ 前回「人間とは何か?「裸」で生まれたものとして(その1)」から続く。
裸性は罪か
「神は罪の作者ではない」と言われるとき、疑問を持つ人は多いだろう。ところが、伝統的なキリスト教(カトリック、正教、聖公会)も、改革主義教会(ルター派、改革派、会衆派、バプテスト派)も、いわゆる福音派もまた、この点に関しては異論がないようである。「神は罪の作者ではない」としたら、私たちはとりあえず二つのことを考える必要がある。「そもそも罪とはなんぞや」ということ、さらには「私にとって罪と思えるものは本当に罪なのか」という二つである。
第一に「そもそも罪とは何ぞや」と問うときに、前回取り上げた人間の裸性の意味が問われることになる。本来的にいえば、裸性とは神によって人間に与えられた属性であったが、その事実を知った人間は「裸であることを恥ずかしい」と感じるようになった。神は人間の属性として裸であることを人間の恥とはしなかったが、「善悪の知識の木」の実を食べた作用として人間は、自らの裸性を恥としたのである。しかも、それを自らの創造主である神に対する恥と口にしたわけである。
しかし、裸を見られること自体を恥であり、慎むべきこととする一方で、その裸をめぐって人間がいろいろやらかすというのは面白いテーマである。つまり人間を語ることにおいて裸の出来事は、常にわくわくどきどきなのだ。だから文学にもなろうし、芸術のテーマにもなる。されど、表向きは隠しておくにこしたことはないとされている。
アダムは自らの裸性を神の前に恥じたのか
問題は、本来的になんら恥ではない裸を神に対しても「恥じる」という人間の心理である。もちろん、これは禁断の木の実を食べた結果であるので、この心理自体を神が与えたものとはいえないだろう。何を言いたいかというと、本来的に人間が与えられている属性を恥じるという心理は、実のところ基本的には現代人もまた受け継いでいるものである(恥と感じるようにすり込まれているという意見もあるが)。そしてアダム以来、現代人に至るまで受け継いでいるとされているものとして、原罪という概念がある。神は罪の作者ではないが、つまりもともとはこの世界になかった罪という事実を人間は持つようになったわけである。この罪というものを、アダムから受け継いでいるというのが原罪論である。むろん「裸性を恥じる」ということを原罪と結び合わせているわけではないが(いやむしろ裸性を恥じる人間であるが、実のところ罪についてはあまり恥じることがないのではないか、と創世記の著者は考えていたようであるが)、関連はあるはずである。罪は隠せると考えてしまう愚かさこそがアダム以後の人間の本性であるがごとしである。
ことの本質は違うところにあるのか
次に論じるべきは、人間は隠していたはずの罪が露見した場合、多くは言い逃れる道を選ぶという点である。罪の言い逃れは知恵の始まりでもある。うまく言い逃れれば、罪は罪とされない。これは人間社会の現実であるが、神との関係においては通用しない。
さて、「そもそも罪とはなんぞや」と問うべきだと述べたが、ただ単に、禁止されたものを食べたというだけなら大げさにいう必要はない。木の実を食べた結果が問題なのだ。つまり人間は本来、裸を恥じるべきではないにもかかわらず、裸性を恥じて神から隠れたことにこそ罪があるのだ。むろんその場合は当然に罪の作者は神ではない。善悪の知識の木があり、そそのかすヘビがおり、人間がその木の実を口にしたとして、その結果生じた神から隠れるという罪についても神にはなんら責任はないのである。もともと人間に罪を犯させる計画など神にはないのだ。だから神は意地悪だとかいうべきではない。
人間は罪として生まれてくるのではない
であるならば、禁断の木の実を食べて神から隠れたたという人間の罪は本当に罪であるのかという疑問も許されるであろうか。しかし、実のところ許されないのである。なぜならば、聖書自体は「毒リンゴ事件」を偶然ではなく必然としてわれわれに問い掛けているからである。神の計画ではないが、それでも人間である限り「毒リンゴ」を食うのである。「毒リンゴ」を食う者として聖書は人間を登場させるのである。そして、恐らくそういう人間もまた神の作品であるけれども、人間が「毒リンゴ」を食うことそのものに神の責任を問うことはしない。聖書にはそういう発想がないのである。
多分「毒リンゴ」を食べない人間がいる別世界が存在するであろうが、われわれの世界では人間は「毒リンゴ」を食うのである。罪を犯す人間が存在するということが、この世界の現実なのである。人間が存在する限りにおいて「毒リンゴ事件」が繰り返されるのだ。神は罪の作者ではないし、人間も罪の作者ではないが、人間は罪を犯すのである。こういう事実があるということを示している点において、聖書は聖書であるのだ。つまり、私が言いたいのは、人間は罪を犯すのであるが、人間こそが「罪の源」であると言い切ることはできないのではないかということである。まして、人間の罪が生殖によって増え広がったかのごとき表現はいかがなものかと言いたい。人間は人間として生まれてくるのであって、罪として生まれてくるのではない。当然のことである。
それでも人間は神に向き合う
人間が生まれるという事柄を、罪が生まれてきたかのごとく(直接的にそのような言い方をしないとしても)解き明かすことはできないのだ。もしそのようなことをするならば、それは大罪であると言わねばなるまい。人間として生まれてきた存在が罪を繰り返すのである。幾らかの例外はある(生まれたばかりの子どもに罪があるかどうかはいつも議論となるが)にせよ、人間は罪を犯すものであって、その事実を「毒リンゴ事件」はわれわれに問うのである。
では、罪を犯す(実のところ「毒リンゴ事件」などはごくごく些細なことであるが)人間に対して神はどのような存在であるのか。ここにこそ聖書の本質がある。具体的にいえば、罪に陥った人間に神はどのように語り掛け、どのように働き掛けるのか。この事実こそを聖書はわれわれに示しているのである。聖書の関心は罪の作者が誰であるのかではない。罪を犯す人間に対する神の姿勢(このような言い方もひんしゅくを買うだろうが)を示すことによって、「このような方こそお前の神ではないか」と問い掛けているのである。罪を隠す者として、罪を言い逃れる者として、そういう人間の一人として「あなたは」この神にどう向き合うのか、向き合えるのか(つまり、それが人間側の可能性なのだが)を問うのである。
神とどのように向き合うのか、もちろん答えはない。答えはないから、聖書は「毒リンゴ事件」以降の神と人間の歴史を書き続けている。その過程においてさまざまな事件があり、さまざまな不思議があり、またいろいろな不条理があって、人間の側としても当惑の連続ではあるが、なおも聖書が問い続けるのは「お前はこの神に心底向き合うのか」である。向き合っても向き合わなくても、「必然的に(こればかりはどうあがいても必然である)」人間はこの世界における終わり、つまり死を迎えるのではあるが、どうせなら向き合ったほうが楽しいに決まっている。
結びとして
人が宗教を持つ理由はつまることろ、それは神に向き合おうとするからである。そして言葉を変えれば、それは己の存在の意義を問うことになるだろうし、また一つの命を終えて自らの死を迎えることへの挑戦ともなるだろう。そういう意味で宗教は、人間が主体のように思えるかもしれない。しかし、人間が信仰を持つ理由は恐らくは違う。自己認識やチャレンジのためだけではない。究極的には神が人間に向き合うからである。自らが自身の裸性(つまり弱さ)の故に神から隠れているとしても、それでも神が「私」に目を向けていると考えざるをえない何かがあるからだ。事実として神から隠れるアダムたちを神は探している。その不思議さに身を寄せることは何ら恥でもないし、むしろ、それこそが人間の本性なのだ。
■ 人間とは何か?「裸」で生まれた者として:(1)(2)
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