不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(5)
※ 前回「エデンの東 終日のたり のたりかな(その1)」から続く。
やっぱり殺人はあかんやろう
「こりゃ、あかんわ」とつくづく思う、カインがアベルを殺してしまったという事実。これは人間の歴史に重い影を投げ掛け続ける。なぜ殺したのかを論じても意味がないことかもしれないが、この地上における最初の殺人事件が神へのささげ物をめぐるものだったというのは、何とも目を当てられない。神から何か施しを受けるときに不公平が起こったというわけではない。神へのささげ物をめぐる騒動というのが何とも皮肉なのだ。主題としては、ささげ物をしたときに、神に喜んでもらえた側とそうでない側の心の持ちようということだろうか。人間はいつも自己利益だけを追求しているのではなく、素直に神に喜んでもらいたいという気持ちをも持っている。それが人間なのだ。
前回述べたように、カインとアベルは職業が違う。カインはアダムの所行の悪さによって呪いを受けた地を耕す者。そもそも神が喜ぶほどの優れた収穫が期待できない中で、あくせく奮闘してきたのだ。とはいえ、そういう現実だから何ともできませんという言い訳はできない。これもまた世の常である。神のお言葉によれば「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」(創世記4:7)ということになる。神にささげ物をするという正しさ故にカインの心には格闘があるのではないか。
ここで一つ問題にしたいのは、神はこれから起こり得る悲劇を予知していたのか、それともカインの表情を見て初めて心の異変を感じ取ったのか、ということだ。神は何から何まで予知しておられるのだろうか。もし予知しておられるのなら、どうしてカインを力ずくで止めなかったのか。そうすればアベルは死なずに済んだのではないか。このような素朴な疑問は誰もが感じることだろう。カインに同情するにも、アベル側に立つにしても、このような事件がないならその方がよいのである。神が人間の悪を事前に察知して止めてくださればよいのにと思うことが多い。むしろなぜそのようになさらないのかとさえ思ってしまうのだ。
神は怒りを問う
先ほどの神の宣告に戻ってみよう。神は「お前が正しいのなら」また「正しくないなら」と2回もカインに正しさを問うている。神が喜んでくれなかったことに不快になってしまう、そのカインに正しさを問うのである。実はこの主題は後にヨナ書でも同じように問われることになる。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか」(ヨナ4:9)。ぜひヨナ書にも目を通してほしい。
ヨナ書の場合は明確に、お前のその怒りは正しいのかと神は問われている。恐らくカインに対する神の問い掛けも意図は同じである。お前の怒りは正しいのかと。そのように問われるわけであるから、当然のごとく期待される答えは「正しくはない」ということになる。いや、スピリチュアルケアらしくこのように述べよう。「この怒りがたとえ正しくないとしても、この怒りを消しようがないのが人間というものではないか」。神は正しさを問い、われわれ人間は自らの感情の正当性を訴えるのだ。しかし、これでは会話が成り立たない。ミスコミニュケーションである。このすれ違いというものが、結局のところカインのアベルに対する暴力を止められなかった理由なのだ。
ヨナの場合も同じである。己の正しさを問われたヨナの答えは、「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです」であった。ヨナも正しさよりも自分の感情を優先したのだ。ヨナも怒りの先に「死」を見ている。カインの場合は自分の死ではなくアベルの「死」を投影している。怒りが死を欲しているのである。何という悲しきことか。そして怒りと死が結び合わされてどれほど多くの悲劇が繰り返されることか。
それでも神には責任がないのか?
そう、われわれ人間の中では怒りの先にはどうも「死」というものがうろちょろしているのだ。これが私とあなたの正体なのだ。怒りが湧き起こるというのは、単なる感情の起伏ではなく、もっと具体的なもの、つまり「死」を予感させるのだと聖書は鋭く指摘している。もちろん、この事実にわれわれも気付きはするのだが、それでも怒りの支配する「死」を渇望するのがわれわれの心。だとしたら、誰が怒りの先にある「死」を解決してくれるのか。
ここで神は言われる。「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める」。ここで言われる罪とは、怒りの末にアベルを殺してしまうという具体的な行為が暗示されている。「お前を求める」とは、怒りがある限り怒りに支配されて暴走してしまう人間の姿を表している。そしてさらに加えられた神の言葉は「お前はそれを支配せねばならない」である。まったく不思議な表現である。お前は怒り、過ちを犯してしまう存在であるから、私はお前を止める、と神は言われない。「お前はそれを支配せねばならない」とはつまり、罪を犯すかどうかはお前次第なのだと読めるし、罪の結果に対しても、それはお前が責任を負うことになるとも読める。
怒りによって神の前に正しさを失う人間は過ちを犯すが、その結果に至るまで、主体はやはりその人間自身ということだろう。怒り故の行動において神の過失を問うべきではないということか。まして殺人という最悪の事態に至ったとて、そこに神の責任は問えないということか。なるほどそれは厳しいことである。神が喜んでくれない、私は怒りを制御できない、私は暴走してしまう、でも神には責任はない。そういうことであろうか。何ともやるせないものだと私は思うのだ。
われわれは諭しは受けている
今回は殺人の顛末(てんまつ)を問わない。私たちは結果をすでに知っている。「こりゃ、あかんわ」と誰でも思うその結果である。われわれは自分の中にある怒りをコントロールできないことを知っている。怒りによって暴走する自分自身を知っている。それが人間の本性の一つだ。だだし、そういう人間それ自体が「罪」の証明であると私は言わない。むしろ、このような人間であることを嘆くしかない。
私は私の怒りを知っている。もちろん神も私の怒りを知っており、その結果について大変に憂慮しているのだ。だから神はカインを諭したのだ。結果を予知しているかどうかではなく、神は怒りの先に死がうろちょろしているわれわれの現実を知っているのだ。だからこそ神は真っ先にカインを諭すのである。
人間が何かをなしたとして、それを神が喜んでくれないという不条理があったとしても、その神への怒りは正しくはない。どこまでいっても正しくはないというのが聖書の教えであろう。そして正しくない怒りに支配される人間に対して、神は放置ではなく、常にまず諭す方であることをわれわれは知らされるのだ。避け難い「怒り」を抱える人間を、諭すこともなくただ放置するのがわれわれの神であるなら、それこそが悲劇なのだ。だから、神がカインの殺人を予防できない不条理を嘆くことよりも、確かにわれわれ人間はいかなる事柄についても神から諭しを受けているということを何についても知る必要があるのだろう。(続く)
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