不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(20)
※ 前回「口数の多い死体? ヨブ記考察(その1)」から続く。
キリスト教的であるとは?
キリスト教的であるとはどういう意味か。これは大事なポイントである。例えば、キリスト教的であるから道徳性が高いとか、愛に満ちているとか、そういうイメージは間違いではない。しかし、それが全く正しいというわけでもないだろう。では何が重要かといえば、まずはあちこちに救い主キリストの姿なりが見え隠れしていることである。少なくとも教会は当然として、キリスト教的な行為や事業なりにしても、その背景としてキリストが感じられることが大切ではないか。全面的にでなくてもよいのだが、それでもうっすらと浮かび上がっていなければならないのである。
第二には、キリストが見え隠れしないのであれば、その問題には触れない方がよいということも覚悟しておくべきことである。例えば、聖書におけるイスラエル愛国バンザイ的な記述に関しては、手に負えないのであるから、無視とはいわないが、放置する方がよいだろう。他民族、他国を絶滅せよ!的な部分は、われわれには何とも語りようもないのではないかと思う。そこに無理やりキリストをはめ込むというのは、よろしからざるである。
第三には、キリストの位格性を抜きにしてはならないということである。ついついわれわれは、キリストを神の側に立たせてしまうのであるが、キリストは人間の側にも立たれた方であるから、基本信条において「全き神にして、全き人である」と告白されていることの意味するところを重んじなければならない。人間に宿り、人間として生まれた神がキリストであって、優れた人間であったから神に祭られたということではない。
キリストが苦悩を負うのは誰に対してか
というわけで、ヨブに対してキリストとはどのような方であるかを考えるのであるが、もちろん、神の側にあってヨブの姿を見ている方である。サタンによって試練に遭わされているヨブを、父なる神の側で見ている方である。その一方で、キリストご自身も苦しむ方であるということを、われわれは知っている。人間マリヤから生まれた者としての生涯は、確かに人間そのものの歩みであったし、その人生の中で神から負わされた「救い主キリスト」としての苦難は避け難いものであると自覚しておられた。
イエス・キリストが40日間砂漠でサタンの試練にあったことは、われわれの知るところであるが、それだけではない。イエスがキリストとして生きた時間そのものが、やがて来る十字架の苦しみに向かっていたのだ。十字架の後に復活することは承知されていただろうが、だからといって、十字架の苦しみが軽減されるわけではないのだ。死んでも復活するなら死ぬことに苦しみはない、と口にするとしたら、それはとてもじゃないが、キリストの十字架の重みを感じているとはいえない。「キリストによって死に、キリストによって復活する」というのが、われわれの信仰の本質であったとしても、その本質そのものが人間から死の重みを取り去りはしないのだ。
われわれがどう頑張ってみたところで死を克服することはできない。せいぜい本音の部分で、「どうにかこうにか自らの死を過ぎ越していける何かを確信できればよいのに」という思いがあるくらいだ。死というものに対する慎ましい態度が消えたとしたら、われわれはけして自分ではない他者の死に対して優しさをもって接することはできないだろう。
そういうわけで、キリストがご自身の死に対して示された苦悩というものは、やはりわれわれにとっては大きな慰めにもなるし、少なくとも神の子がわれわれの生涯に大きな共感を抱かれていることは、生きる上で大きな支えになるのだ。
マジックではなくミステリーを!
つまり、ヨブという一人の人間の中にキリストの姿を見ることも可能であるし、ヨブが抱いた複雑な心の動きは、同時にキリストがゲッセマネの園で抱いた思いとシンクロしていると受けとめることも可能だ。それはまさにミステリーではあるが、そのような視点がなければ、ヨブという人間はわれわれからは遠い存在になってしまうのではないか。同時に、ヨブだけではなく、苦痛と苦悩を背負っている人間、その背後にあるキリストの苦悩に対して、「信仰者」であればけして鈍感であってはならないのだ。つまり、苦しむ者の中にキリストを見るというのは、けして荒唐無稽なことではないのだと思う。
さまざまなものを失うということにおいて打ちたたかれる人、病むということで叫び声を上げる人、そこには必ずキリストの本性的な結び付きが伴うのである。いちいちすべての人に対してそのように考えることは無理だと言う声もあるだろうが、それでも可能な限りわれわれは、人間の悲劇においては、自らの心を少しでも、他者とキリストとの結び付きに働かせるべきではないか。つまり自分に対しても、同時に他者に対しても、キリストの憐(あわ)れみを望むということがキリスト教的なスピリチュアルケアなのだ。
もちろん「あなたの苦しみは救い主キリストも経験されたことですよ」と安易な応答をしてはならない。それは少しも慰めにならない。そういう言葉は、大抵は相手に対して大きな失望を生み出すだけである。苦しんでいる人と向かい合う人間は、ただ密かに心得るべきことがある。それは人間の苦しみを味わう方がキリストであられるのだという自覚を持ちつつ、人々と向き合うこと。また、キリストの十字架による死によって、その死は滅ぼされるのだという慰めを自分自身に持つべきなのだ。
ヨブの姿に何を感じるのか
ヨブはサタンによって、自身の子どもたちを含め、全てを失った。それでもヨブ自身は、「わたしは裸で母の胎を出た。裸で、そこに帰ろう。主が与え、主がお取りになった。主の名は祝されますように」と語る。そのように語りながら、何とか踏みとどまったのだ。「あのような男はこの地上に二人といない。彼は非の打ち所がなく、正しい男で、神を畏れ、悪を遠ざけている」と、神に言わせたままの姿で今は踏みとどまっているのだ。もちろん、それは表面的なことなのかもしれないが、少なくとも今はまだ神のメンツを保っているように見える。
そこでサタンは次の試練を用意する。それはヨブをひどい病に落とすことである。再度、神はヨブをサタンに託す。もちろん、神の側にいるキリストは、ヨブが病の中で苦しむ姿を天上から見ているし、同時に、ヨブの人間としての耐え難き苦しみを人間の側に立って味わうのだ。
ヨブにはこの苦しみがいつ終わるか知らされていないし、実は神の側ではこの苦しみを死によって終わりにするという策もない。読者であるわれわれは、けして死で終わらない苦しみをヨブが背負うことを知っているが、ヨブは知らないのだ。回復が約束されていない病の床だ。そこにヨブが座っているのだ。灰をかぶり、陶器のかけらで体中をかきむしっているのだ。血だらけである。かきむしってもけして治癒などしない。誰もがそのことを知っている。体中をかきむしり、もだえながらこの人は死んでいくのだと、その場にいれば誰もがそう思うのではないか。
ヨブが死なないことを知っているから、われわれは続きを読めるが、そうではない人間にはヨブを直視するというのは相当につらいことに違いない。それがつらくないという人間がいたら、それこそキリスト教的ではないといわざるを得ない。「神よ、このヨブを憐れみたまえ」という思いがなければ、ヨブを直視できない。でも、天上にいる神は実際にはどうであったのか。ヨブの姿に何を思うのであろうか。ヨブ記が心に染みるのは、天上にいる神の秘密とその不思議、そしてはるかに人間を超えるその思いの一端をわれわれに知らせてくれるからである。(続く)
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